#1 Shunsuke Kamei

2004年 1月 20日文学部総合講座「情の技法」に、「情の技法」という概念の提出者であり、アメリカ文学・文化研究者としても名高い亀井俊介氏が登場します。亀井氏において「情の技法」とはいったい何を意味するのか?そして、同講座コーディネーターである巽先生は、それをどのように受け止めたのか?巽先生が亀井氏の作品に寄せた書評やスピーチから、そのヒントを探ることができるでしょう。

<講義情報>
亀井俊介
「夏目漱石の『文学論』をめぐって(仮題)」
2004年 1月 20日(火)10:40-12:10
慶應義塾大学 三田キャンパス南校舎  444番教室

亀井俊介(かめい・しゅんすけ)
1932年岐阜県生まれ.東京大学名誉教授,岐阜女子大学教授.『近代文学におけるホイットマンの運命』(1970)で日本学士院賞,『サーカスが来た!』(1976)で日本エッセイストクラブ賞,『アメリカン・ヒーローの系譜』(1993)で大佛次郎賞を受賞。



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CONTENTS

序文「亀井俊介を囲む会」発起人スピーチ
2000年12月10日 於パレスホテル

書評
亀井俊介『アメリカン・ヒーローの系譜』(研究社)
初出:『東京新聞』1/16/1994

亀井俊介編『アメリカ文化事典』(研究社)
初出:『英語青年』145巻 8号(1999年11月)

ジェリー・グリズウォルド『家なき子の物語−−アメリカ児童文学に見る子どもの成長』吉田純子他訳(阿吽社)・亀井俊介『マーク・トウェインの世界』(南雲堂)
初出:『東京新聞』11/4/1995

亀井俊介『わがアメリカ文化誌』(岩波書店)
初出:『東京新聞』4/27/2003

関連リンク
関連書籍

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序文「亀井俊介を囲む会」発起人スピーチ
2000年 12月 10日 於・パレスホテル
巽孝之

本日は亀井俊介先生、南雲堂の『アメリカ文学史講義』全三巻完結と岩波書店の『アメリカ文化と日本―「拝米」と「排米」を超えて』のご出版、まことにおめでとうございます。

わたくしは先生には直接教えを賜ったことはないのですが、その少なからぬご著作を長く愛読してきた者のひとりであり、また日本英文学会や日本アメリカ文学会などでは折にふれて酒席をともにさせて頂き、そればかりか、昨今では松柏社より<アメリカ古典大衆文学シリーズ>なる翻訳出版の共同監修者まで勤めさせて頂いているため、今日の会では若輩ながら畏れ多くも発起人の末席を汚すに至ったのだと思っております。

それにしても、ふりかえってみるに、わたしと亀井先生とが親しくお話しできるというのは、見方によってはいささか奇妙に映るかもしれません。というのも、わたしが大学院生として学び、アメリカはコーネル大学へ留学してアメリカ文学研究者としての基礎を固めた 1970年代後半から 1980年代半ばにかけての期間というのは、いわゆる構造主義や記号論、脱構築といった批評理論の全盛期であります。自分がそうした最先端の批評理論の波を全面的に浴びて育ってきたことを決して否定するつもりはありませんし、それは昨今では、自分自身で試みているアメリカ文学思想史の言説的準拠枠を再検討する作業にも、大いに役立っています。

ところが、亀井先生というのは、『アメリカ文学史講義』のあとがきでもくりかえしておられますが「いまは『知の技法』よりも『情の技法』が必要だ」という明快なる主張を長く発展させてこられたかたですね。今回の場合、具体的には、こんなふうに述べておられる。「このごろ文学・文化研究の世界では『知』がおおはやりだが、『情』は衰弱しているように思える。私はこの講義で、どうも『情』をこそ盛り上げることに心を用いてきたらしい。そしてその『情』への私の思いの根底には、プリミティヴィズムとでもいうべきものが働いているような気がする」(第三巻「あとがき」)。すなわち、わたしのようにアメリカ文学研究に批評理論を導入してやっているような人間とは、表面的には相容れないかのように見える。わたしのほうも、むしろ年輩の世代のかたには、亀井先生ぐらい強烈なメッセージを持ち続けてほしいものですから、長いあいだ、じつに歯ごたえのある先行者として仰ぎ見てまいりました。

それでは、いったいどうして昨今では亀井先生とよく一緒にお仕事するようになったのか、といえば、それはひとえに、アメリカ大衆文化、アメリカ大衆文学への興味が一致している点に求められるでしょう。SFやロックをこよなく愛するわたしにとって、たとえば亀井先生が、かつてマーク・トウェインへのオマージュとして書かれた現代作家フィリップ・ホセ・ファーマーの SF小説を分析する論文を発表しておられるのを知ったのは、大きな喜びでした。

こんなことを考えながら、たまたまアメリカ共和制時代の小説史をひもとき、とりわけ再評価の進むアメリカ最初の小説であるWilliam Hill BrownのThe Power of Sympathy (1789) を読み直していましたところ、ひとつふしぎなことが起こりました。というのは、この小説 The Power of Sympathy は不倫や近親相姦を扱った典型的なお涙頂戴メロドラマ、いわゆるセンチメンタル・ロマンスでありまして、旧来そのタイトルは「親和力」とか「共感力」と訳されてきたのですけれども、そこで語られているのがまさしくアメリカ独立精神を支える感情の問題であってみれば、ひょっとしたらこれはほんらい「情の技法」と訳すべきタイトルだったのではないか、と実感したのです。そう、アメリカ合衆国最初の小説は、亀井先生の文学的信条である「情の技法」を主題としており、まさにそこから、独立革命以後のアメリカ文学史は始まっている。こうした再発見を促して下さっただけでも、亀井先生の『アメリカ文学史講義』は本文とあとがきともども啓発的であり、わたしたち後発者にとっての模範であり続けるだろうということを確認しまして、祝辞に代えさせて頂きたいと存じます。

2000年 12月 10日(日曜日)6時-8時
於・パレスホテル

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書評:亀井俊介『アメリカン・ヒーローの系譜』(研究社)
初出:『東京新聞』1/16/1994
巽孝之

アメリカ人はヒーローが大好きだ。なにしろ、南北戦争ものヴェトナム戦争ものの映画はひきもきらず、映画俳優が大統領になることすら可能なお国柄。歴史の浅い国ゆえに、いわゆる国民の神話を現実の歴史と並行してつくりださなければならない。かくして、国の歴史そのものがかたはしから神話化され、その途上でアメリカン・ヒーローという名の神話英雄たちがおびただしく生まれおちていった。

亀井俊介氏の最新刊は、まさしくそんな角度から積みあげられた研究成果の集大成である。

アウトラインだけをたどれば、本書はアメリカ人の典型を「新たなるエデン(アメリカ)」の新たなる自然人「アメリカのアダム」ととらえ、その系譜をワシントンやリンカーンらの大統領からダニエル・ブーンやデイヴィ・クロケット、ジョニー・アップルシードなど開拓時代の強者、巨人のきこりポール・バニヤンといった変わりだね、ジェシー・ジェイムズやビリー・ザ・キッドのような荒野の命知らず、ひいてはエジソンやターザン、ロッキーやランボーといった今世紀の人気者にまで跡づける「ヒーロー列伝」として読むことができる。その論旨は、自然征服の果てに文明建設せねばならぬ「アメリカのアダム」の矛盾を暴き、そうした文明内部の批判者「アメリカン・アンチヒーロー(反体制的英雄)」の勃興を精緻に再検証していく。

けれど、ここでの著者の関心は「ヒーローはどんな人物だったか」ではなく、「ヒーローはどのように語られてきたか」という一点につきる。唯一絶対のヒーロー像へさかのぼるのではなく、むしろアメリカ国民たちが時代ごとにヒーローをいかに自由気ままに歪曲し再表現してきたか。そうしたアメリカ的無意識の変転を、さまざまな大衆小説や大衆向け伝記、パンフレットを走破しつつえぐりだす点が、本書最大の読みどころだ。

たとえば、アメリカのアダムならぬ「アメリカのイヴ」の典型で西部劇や三文小説の素材として好まれた平原の女王カラミティ・ジェーンにしても、「アフロアメリカのアダム」として機械文明と闘争し多くのホラ話の主役たりえた黒人線路工夫ジョン・ヘンリーにしても、肝心なのは、彼ら/彼女たちをめぐる「神話」が時代や語り手次第で多様に、時に民衆的英雄(フォーク・ヒーロー)がでっちあげの英雄(フェイク・ヒーロー)にさえ映りかねないかたちで語りつがれることだろう。その結果、まんまと大衆の心とカネをつかむのは、大衆が最も「見たい」と思うヒーロー像を最も巧みにつくりあげる、最も商魂たくましい語り手なのである。

だからこそバッファロー・ビルのように、ヒーローである自分自身が主役を演じる見世物一座「ワイルド・ウェスト・ショー」を率いて大儲けしたヒーローもいたのだ。ヒーローという名のビジネスから、ビジネスマンという名の新しいヒーローが生まれていく歴史。それを誰よりも楽しく物語ってくれるのは、本書の「語り手」をおいてない。  

12/26/1993
初出:『東京新聞』1/16/1994

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書評:亀井俊介編『アメリカ文化事典』(研究社)
初出:『英語青年』145巻 8号(1999年 11月)
巽孝之

世にアメリカに関する事典のたぐいは数多い。だが、考えてみればもともとアメリカという国家自体が世界に関する事典である。アメリカに関する事典は、めぐりめぐって今日の世界全体を網羅する、真の意味で百科全書的なテクストにならざるをえない。したがってわたしの場合、必然的に Encyclopedia AmericanaDictionary of American History に準拠することが多くなるが、しかしもちろん、日々更新される新しい文化や新しい言葉については、新しい発想になる新しい事典に目を通すのがいちばん。しかも昨今のアメリカにおいて「文化」を語ろうとしたら、あくまで個人の筆者ないし編者の趣味や偏向を全面に押し出し「カタログ」ないし「ソースブック」と融合したメタレヴェルにおける「事典」に収穫が多い。その意味で、Arthur Kroker のPanic Enclyclopedia やRichard Kadrey の Covert Culture: Source Book、それにRuss Kick の Outposts: A Catalog of Rare and Disturbing Alternative Informationといったレファランスは、いずれも対抗文化以後の現在文化を語るのにふさわしい新形式の「事典」として、多くのヒントを与えてくれる。

こうした魅力は、今回出版された亀井俊介編の『アメリカ文化事典』にもじゅうぶんあてはまる。タイトルがタイトルなので、一見したところ伝統的なアメリカ文化から現在最もヒップなアメリカ文化までを包括的に網羅した、それこそ百科全書的な印象を醸しかねない。従前の段階で最も優れている一冊本の類書といったら、同じ亀井自身が四名の監修者の中に名を連ねている『アメリカを知る事典』(平凡社、1986年)だが、仮にその精神を継ぐものだとしたら、旧来のものに比べ、どの項目が余分でいかなる項目が欠落しているかに関心を抱く専門的読者も、決して少なくないだろう。

だが、本書に関する限りは、このタイトルを亀井俊介編『アメリカ文化事典』ではなく『亀井俊介編 アメリカ文化事典』とひとまずは読み替えてのぞむことこそ、おそらくはいちばん実り豊かな「事典の快楽」を得るための方策である。亀井俊介が旧来のアメリカ文学と文化の盲点を突くような、とりわけアメリカン・ヒーローやダイム・ノヴェル、サーカスといった大衆文化を視野に収めた広くて深い研究を続けてきたことは周知のとおりだが、彼は同時に、アメリカに関するさまざまな企画や論文集の編集によっても名をなし、昨今では、個人による『アメリカ文学史講義』全三巻(南雲堂、未完)という偉業をも達成しつつある。それが単独著であれ編著であれ、ひとたびこの人物のブランド名が付された書物からは、たちまち「亀井俊介のアメリカ」が、すなわち戦後復興期をあたかもハックルベリー・フィンのように逞しく生き抜き、破壊へ舞い戻るよりはあくまで統合を希求する日本的精神ならではのイメージが、生き生きと呼び起こされる仕掛けになっている。かくして本書序文における亀井は、多人種の国アメリカが多文化の国であることを認めつつ、現在ではそうした主張とは逆の現象がしばしば起こり、「サラダは苦い味になり、モザイクは崩れ、多文化はてんでんばらばらの分裂状態を露呈する」ことに統合を脅かす危機を感じとり、それ自体、至って苦い認識を記さざるをえない。

けれども、だからこそ亀井は、本書という文化事典を編集し「統合」する仕事そのものを通して、アメリカの夢を再び甦らせようと思ったのではあるまいか。げんに本書は、編者を含め十名の執筆者を擁するものの、にもかかわらずかつての『アメリカを知る事典』で亀井俊介執筆になる項目が亀井以外の執筆者の手でアップデイトされている部分も多く、彼のエディターシップは序文のみならず同書の全般においてぬかりなく発揮されている。じっさい、本書をまとめるのに設定された四つの編集方針「広い意味での文化」「読みやすさ」「現代性」「日本への意識」(「あとがき」より)は、何よりも従来「亀井俊介のアメリカ」を成立させるのに不可欠な条件であった。

従来のアメリカ事典のたぐいには稀な、比較的斬新な項目としては、「缶詰」「チューインガム」「ヴェトナム戦争映画」「タヴァーン」「テレヴァンジェリスト」「日本食」「日本庭園」「ハーレクイン・ロマンス」「ビデオ」「モービル・ホーム」といったところが挙げられるだろうか。また、地図や年表もさることながら、とりわけ「アメリカ 50州」に関する詳細をきわめるデータがまとめられているのは有益であり、今後大いに参照することになりそうだ。

9/13/1999

初出:『英語青年』145巻 8号(1999年11月)

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書評:ジェリー・グリズウォルド『家なき子の物語−−アメリカ児童文学に見る子どもの成長』吉田純子他訳(阿吽社)・亀井俊介『マーク・トウェインの世界』(南雲堂)
初出:『東京新聞』11/4/1995
巽孝之

現代アメリカの人気作家ポール・オースターが脚本を手がけ、ウェイン・ワン監督が製作した映画『スモーク』(邦訳・新潮文庫)が封切られた。さまざまな事情で離れ離れになった親と子がふとしたことで再会するという、至って感動的なクリスマス・ストーリーである。

そこでは、オースター文学を貫く孤児や貧窮のモチーフと、ワン監督自身が『ジョイ・ラック・クラブ』などでこだわった家族ロマンスのモチーフとがスリリングな「対話」を交わす。それは、ユダヤ人オースターと中国系ワンとが、まさしく多民族国家アメリカ内部で少数派の「孤独」を意識してきたからこそ実現した「対話的想像力」の成果ではなかったろうか。 

折しもアメリカ文学と孤児の関係を説き明かす本が二冊出た。

そのひとつ、サンディエゴ州立大学教授ジェリー・グリズウォルドが 92年に出版した『家なき子の物語』は、まず過去百年、それもとりわけ南北戦争の終わる 1865年から 1914年まで 50年間のベストセラーの大半が児童書であることに注目する。これは、なぜなのか。

理由は簡単。ほんらいアメリカという若い国家自身が、イギリスの君臨する家族の中の幼子として出発しながら、独立革命という名のもとに親からの自立を図るのであり、それはいわばアメリカ史そのものが「もうひとつの児童の成長物語」であることを意味する。したがって、とくに南北戦争以降、「親と疎遠になったりエディプス的な反抗をしたりする孤児のパターン」が目立つのも当然だろう。かつてピューリタン植民地時代にはコットン・マザーらによって「幼い殉教者像」が理想化されたが、他方、南北戦争を境に「動物的な活力と勇気のある腕白少年像」が浮上してきたのも、まさしくアメリカが内乱を通して内面的矛盾をも克服していく過程にほかならない。こうした洞察力によって、本書はトウェインの諸作からボームの『オズの魔法使い』やポーターの『少女パレアナ』まで 12 作品を、ユニークに分析してみせる。 

もうひとつ、亀井俊介の『マーク・トウェインの世界』は、著者が 59年のアメリカ留学以来あたためてきた研究の集大成。1835年ミズーリ州に生まれたサミュエル・クレメンズが、いかに 65年以来マーク・トウェインという筆名で広く知られ国民的作家になっていくか、その歩みを最新の視点から再検討する読みごたえ充分の評伝である。

著者は、基本的にトウェインをユーモアあふれるエンタテイナーであり講演などでもショウマンシップを発揮する「文学的コメディアン」だった、このような作家トウェイン像こそトウェイン文学最大の傑作だったと再評価する。むろん、いったんそうした作家的仮面を創ってしまえば、東部的文明人と西部的自然人という両極に引き裂かれた自分自身との闘争も尋常ではない。だが著者は、まさしくそのように追いつめられたトウェインがぎりぎりのところで自己を解放し、本当に「本物」の存在になろうとしたのが『ハックルベリー・フィン』ではなかったかと問い直す。そうしたトウェインのフロンティア・スピリットこそは、戦後日本という名の荒野を開拓した著者自身にとって最も切実な理念である。本書のトウェイン像があまりに生き生きと魅力的に描かれているゆえんは、たぶんそこにある。

10/15/1995

初出:『東京新聞』11/4/1995


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書評:亀井俊介『わがアメリカ文化誌』(岩波書店)
初出:『東京新聞』4/27/2003
巽孝之

「戦後、強くなったものは女と靴下」といわれたのも、いまは昔。若い世代は耳にしたことすらない表現かもしれない。それどころか、今日では典型的なセクハラ表現として槍玉にあがるかもしれない。だが、文字どおり戦後日本のアメリカ研究をリードしてきた著者によれば、ここには戦後のアメリカナイゼーションそのものが強くなったことが含意されているという。ナイロン靴下はその物質的な側面だし、女権の拡張転じては性の解放はその社会的な側面だからだ。そういえば米軍占領下の日本映画も、アメリカ的民主主義により、天皇制表現を覆い隠し男女の恋愛を積極的に盛り込むよう指導されたのだった。
このように眼からウロコが落ちるような分析が、主流文学から大衆文化まで、ホイットマンからスピルバーグに至るまで、驚くほど広い射程で織りなされる。とりわけ、比較文学・比較文化においても造詣の深い著者ならではの切り込みは深く鋭い。たとえばアメリカン・ヒーローはリンカーンにせよターザンにせよ勝利の象徴だが、日本的英雄はといえば豊臣秀吉や源義経のように悲劇ゆえに賞賛されるという指摘。明治時代にニューヨークでサーカスを見た戸川秋骨や上田敏らが、当初は深く感動しながらも、のちに「児童瞞(ルビ→こどもだまし)」「まだここに一つの哲学は出て来ない」と評し、その巡業機能を見落としてしまったことへの批判。そして獅子文六の『自由学校』(1950年)が「自由って、タカの知れたもの」と述べつつも、「日本の伝統的文化と妥協調和したところで、アメリカ的生活様式を受け入れようとしている」という卓見。

かくもアメリカを熟知する著者は、アメリカ文化が演出し続けてきた一見健全なる「天国」の陰に、一貫して猥雑なる「地獄」がひそんできたことにも注目し続けたい、と結ぶ。時事問題で右往左往する前に、本書が洞察するアメリカ的心性の本質から掬いとるべきものは、あまりにも多い。

4/3/2003

初出:『東京新聞』4/27/2003

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関連書籍
亀井俊介『アメリカン・ヒーローの系譜』(研究社、1993年;大佛次郎賞)


亀井俊介編『アメリカ文化事典』(研究社、1999年)


亀井俊介『マーク・トウェインの世界』(南雲堂、1995年)


亀井俊介『わがアメリカ文化誌』(岩波書店、2003年)


亀井俊介『近代文学におけるホイットマンの運命』(研究社、1970;日本学士院賞)

亀井俊介『サーカスが来た!―アメリカ大衆文化覚書』(平凡社、2013年;初版 1976年;日本エッセイストクラブ賞)


亀井俊介『アメリカ文学史講義 〈1〉 新世界の夢』(南雲堂、1997年)


亀井俊介『アメリカ文学史講義 〈2〉 自然と文明の争い―金めっき時代から1920年代まで』(南雲堂、1998年)


亀井俊介『アメリカ文学史講義 〈3〉 現代人の運命―1930年代から現代まで』(南雲堂、2000年)


亀井俊介『アメリカ文化と日本―「拝米」と「排米」を超えて』(岩波書店、2000年)