#6 William Gibson & Bruce Sterling

はじめに
巽孝之



サイバーパンク 30周年、すなわちウィリアム・ギブスンの名作『ニューロマンサー』が 1984年に刊行されて 30周年を迎える今年、早川書房の月刊誌『SFマガジン』 2014年  11月号をはじめさまざまな記念企画が内外で行なわれている。ギブスン自身も最新長編『ザ・ペリフェラル』を刊行したばかりだ。

そしてわたし自身、サイバーパンク運動の発生から伴走してきただけに、この 30年間、さまざまな機会に何度となく回想記を綴って来た。ふつうなら食傷気味になるところだが、しかし今年はミシシッピ大学出版局からわたしとの対話をトップに置くギブスン・インタビュー集がまとまったり、前掲『 SFマガジン』 700号記念号が 1986年当時のわたしとスターリングとの対話を再録したりと、自分自身の過去の言説から逃げられそうもないのを実感した年でもある。

もちろん、サイバーパンクの帝王ギブスン( 1948年-)と党書記長スターリング( 1954年-)の来歴については、すでにご承知の方も多かろう。そこで、今回は彼らが頭角を現した時期を 1997年の段階でふりかえったエッセイが当時の熱気を良く再現しており一種の序論としても最適なので再録するとともに、両者の来日記念インタビュー(単行本未収録)をお蔵出しする。


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CONTENTS
INTRODUCTION
サイバーパンク革命(旺文社『ez』1997年9月号)
巽孝之

DIALOGUE I
見慣れた風景の満ちた日本で――映画や新作を語る
ウィリアム・ギブスン×巽孝之(『週刊読書人』1988年2月22日)

DIALOGUE II
SFをゆり動かす――テクノロジーを批判する自分たち自身がすでにテクノロジーの産物なのだ
ブルース・スターリング×巽孝之(『週刊読書人』1988年5月2日)

関連リンク
関連書籍


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INTRODUCTION
サイバーパンク革命 
(初出・旺文社『ez』1997年9月号、113-14頁)
巽孝之


1984年、それまで文学テクストに密着することだけが文学研究のすべてと信じて疑わなかったわたしにとって初めての、そして以後3年間にわたる米国コーネル大学大学院への留学は、さまざまな副産物をもたらした。そのひとつに、生きて運動する現在進行形の文学的コンテクストを、初めてこの眼で目撃することができたという「経験」がある。ちょうどこのころ、趣味で親しんでいたサイエンス・フィクションの中で、ポストモダン文学はおろか20世紀末大衆文化全般を改革しかねない「運動」が生まれてきたのだ。 

ふつう日本の大学院で施される英語英文学教育では、「現代作家(現存する作家)は扱わないこと」という常識をひとまず呑まされる。なるほど「生きている作家」は死ぬ間際に何を言い残すかわからない。それは作品への評価を根底から覆すものかもしれない。したがって、学問的対象としては「もう死んでしまった作家」を扱うほうが無難に決まっている。わたしがいちおう19世紀のアメリカ・ロマン派作家を本職の世界で選択したひとつの理由は、そこにある。

いっぽうサイエンス・フィクションは、19世紀の先駆者たちは枚挙にいとまがないとはいえ、文学サブジャンルとして成立するのは1920年代にすぎない。現在を扱い、現存する作家を多く抱える周縁文学⋯⋯このサブジャンルに関心があるなどとは、少なくとも学界では、オクビにも出さないのが賢明という風潮が長く支配的だった。

ところが、留学中、学業の合間に行なったさまざまな旅行で多くのアメリカSF作家たちと親しくするうちに、ひとつのとてつもない「運動」が起こりつつあるのだという事実を、わたしは「目撃」してしまう。とりわけ、いまもそのことを考えるだけで胸が熱くなるのは、かれこれ12年前にあたる1985年の9月、熱い熱いテキサス州は州都オースティンで、初めてサイバーパンク運動に出会った瞬間に尽きる。

サイバーパンク(Cyberpunk)。いまでこそ、コンピュータ・ハッカーないしアウトロー・テクノロジストを主役に電脳空間と人間−機械共生系を自明の舞台とするSFのひとつのかたちとして広く流通し、『現代用語の基礎知識』『イミダス』『知恵蔵』でも拾われている単語として、どなたにもおなじみだろう。最も正確な起源は、アメリカ若手作家ブルース・ベスキが1980年に発表した短編「サイバーパンク」。しかし、この新造語が一気に注目を集めるのは、1984年に新人ウィリアム・ギブスンが電脳空間で活躍するカウボーイを主役にしたデビュー長編『ニューロマンサー』を出版し、ヒューゴー、ネビュラ両賞をはじめ主要SF賞をかっさらい、彼の友人にあたる若手作家たちがめきめき頭角を現わすようになった時だ。そんな現象を目にした名編集者ガードナー・ドゾワが連中の共通した作風全般を指すのに「サイバーパンク」なる単語を再利用し、それはのちにみごとジャンルSFの枠を超え、広く全地球的に1980年代以後の文化的特徴のひとつを言い当てるコンセプトへと発展していく。そして、まさにこのサイバーパンクSFの「運動」そのものがはっきり顕在化したのが、オースティンで開かれた北米SF大会席上のパネルであった。この折、新しいSFを推進する若手作家たちブルース・スターリングやジョン・シャーリイ、ルイス・シャイナーらが、旧弊なるSF観を抱く司会者の独善に嫌気がさしてパネル途中で席をたつという、あたかも彼らの主人公さながらの粗暴な行動に出て、会場は大混乱に陥ったのだ(詳細は拙著『サイバーパンク・アメリカ』[勁草書房、1988年])。 

もちろんこのスキャンダルを週刊誌記事として事後的に聞けば、怒れる若者たちの幼稚で傲慢で無軌道な無作法として弾劾することもできる。しかし、そもそも運動というのは、なべて一種の軽薄さ陳腐さを備えつつも−−備えるからこそ?−−熱く煮えたぎるエネルギーの塊ではなかったか。そしてわたしにとっては、まさにあの時あの場所で、あれらの若手作家たちの一挙一動を目撃し、テキサスの熱さに1980年代SFの熱さが加わったあの瞬間が、サイバーパンク最初のリアリティであり、ポストモダン文学の究極的興奮だった。大学における静かな作品精読からは決して得られない熱い時代のゆらめきだった。

わたしはさっそくこのパネル・ディスカッションのレポートを<SFマガジン>1985年12月号のために書き送り、かくして「サイバーパンク」という単語が日本に初登場する運びとなる。そして1986年からは、わたし自身が同年 春からスターリングやギブスンにインタビューし始めたことがきっかけとなり、彼らの盟友スティーヴ・ブラウン(当時ワシントンDC在住)の創刊するサイバーパンク系批評誌<SFアイ>の編集委員を勤めるようになるばかりか、サンディエゴ州立大学教授でもあるラリイ・マキャフリイの編集になるサイバーパンク論集 Storming the Reality Studio(デューク大学出版局、1991年)にも寄稿するほど深みにはまりこんでいく。

1986年秋には、まさしくわたしの在学中、コーネル大学人文科学研究所に元祖サイバーパンクとも見なされる黒人SF作家で稀代の理論家サミュエル・ディレイニーが客員教授として迎えられ、前年1985年に発表されたばかりのダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」をテクストにサイボーグ・フェミニズムに関する高密度の講義を行なった(詳細は巽編訳『サイボーグ・フェミニズム』[トレヴィル、1991年])。かくしてサイバーパンク以後の文学的・思想的発展は1990年代における文化研究の中核のひとつを成す。

もちろん、まだまだ昔話にしてしまうには早すぎるだろう。しかし少なくとも過去の作品精読こそがすべてだったわたしは、最も現在的なSF運動に接して、文学研究に関する発想を根本から再検討する必要に迫られた。過去の作品群もまたそのつど最も尖鋭的な「現在」の視点で書かれたこと、そしてわたしたちの現在もいずれは最も必然的な「歴史」の一コマとして物語られるであろうことを、以後のわたしは片時も忘れたことがない。


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DIALOGUE I
見慣れた風景の満ちた日本で――映画や新作を語る
ウィリアム・ギブスン VS 巽孝之
『週刊読書人』(1988年2月22日)

Tatsumi Takayuki & William Gibson



 以前、きみはあるところで「日本人は未来に住んでいる」と書いていた。未来は来たるべき「時間」じゃなくてすでにある「空間」とでもいいたげなところがとても魅力的な視点だった。となると、今回きみはついに未来に来ちゃったんだな。それにいまいるこの店なんか「無国籍料理店スンダ( Sunda)」と銘打っている、ギブスンSFのコズモポリタンな性格にはピッタリの舞台だと思ったよ。

ギブスン だけどねえ、ボクは来日前に日本関係の本や写真集をいろいろ読みあさっといてホントによかった、やっぱりこれまでの日本に対するイメージは来てみてたちまち崩れ去ったからね。たとえば渋谷シブヤあたりを見てると思ったほど猥雑じゃないんだ、ボクの考えている未来像とはちがった。何というかあまりにキレイでスッキリまとまった感じでさ。そこでけんめいに憶測たくましくしたもんだ、いったいボクの読者が作品に見いだす日本らしさってのはどのへんなんだろうってね。それがこの店にきてビックリしたよ、ファッショナブルとはきかされてたけど、まちがいなくボクの趣味だ、架空の民族を連想させる。

 そういえば、昨日来たジョン・シャーリイ(ギブスンとの共作短編「ふさわしい連中」が早川文庫『クローム襲撃』所収)からの手紙にあったな、きみの短編「ニューローズ・ホテル」(同書所収)が近々映画化される。ギブスン&シャーリイの共同脚本で、しかも日本で撮影するそうじゃないか。

ギブスン エド・プレスマンが買ってくれたんだ。『ウォール街』なんかを製作したヒトだ。監督はキャスリン・ビグロー、新作の『ニア・ダーク/月夜の出来事』はそろそろ日本でも公開されるんじゃないかな。彼女はスゴい、あのサミュエル・ディレイニーご推薦だぜ。

 ジョンが史上最高のヴァンパイア映画だと言ってたよ。

ギブスン そう、ビグローがヴァンパイア映画に及ぼした影響は、サイバーパンクがサイエンス・フィクションに及ぼした影響に等しい。そして彼女の手になる映画版『ニューローズ・ホテル』は、たしかに東京でロケをする。ただし未来の要素は極力削って、できるだけ東京というひとつの「世界」を表現したい。たとえば、こういう渋谷の無国籍料理店みたいな場所を切り取ってくれば衝撃力も増すだろうね。
 ジョンとの脚本コンビはどうだい?

ギブスン あいつは何といってもロサンジェルスに住んでいるからね、ハリウッドで仕事するには一番だ。筆足も早いし、それに彼との共作はいつも実にノリのいい物語になる。

 彼のプロット作りはすばらしいよね。

ギブスン そのとおり。だいたい映画ってのはプロットがすべてだからさ。まずボクが設定や人物を決める、するとジョンがそのセンでうまく肉付けしてくれる。

 映画版『ニューロマンサー』のほうが最近ポシャッた。これも同じギブスン&シャーリイ共作脚本で初稿まであがってたのに、スタッフが製作費のかさむのを苦にして解散してしまった。ジョンはすでに脚本を売った『マックス・ヘッドルーム』も打切りになったんでショゲてたけれど。

ギブスン 『ニューロマンサー』は結局『ランボー』をやったプロダクションが買ってくれた。いちおうボクの脚本でやるし、確実に映画化はされるだろうが、『ランボー』自体は気にいらないんでねえ。いったいヒットするのかどうか、責任はまったくもてないよ。
 それよりボクは『エイリアン III』の脚本をついに脱稿した。映画化については、こっちのほうがずっと楽しみなんだ。

 問題は生じなかったの?

ギブスン 脚本は二回ほど書きなおしたかな、それにいくらか修正を加えただけだ。監督はリドリー・スコットに頼むけどね、まだ契約書にはサインしてもらってない。

 内容的にも、サイバーパンクものとはかなり勝手がちがうんじゃない?

ギブスン そりゃもう勝手のちがいかたといったら、ボクはケンタッキー・フライドチキンの国に迷いこんだ寿司屋の板前みたいなものさ。ボクは自分にできることをやろうとしている、ところがスタッフ連中はこういってせきたてる―「それもいいけど、とにかく売り物プロダクトになるよう書いてくださいよ」。(笑)

 先行する『エイリアン I』『エイリアン II』はどう消化してゆくのかな。

ギブスン 前二作に込められたSF的要素をもう一ひねりしたんだ。具体的にいえば、あの異世界構造を練りなおしてみた。

 政治的ニュアンスを出してみたり?

ギブスン IとIIで登場したキャラクターは、今回冒頭から―プロダクション側が気にいりさえすればだが―とある財閥「ウェイランド・ユタニ」のために働いているのが明かされる。これは西欧系の一団なんだが、彼らが宇宙で社会主義者の一団と遭遇するんだ。もっとも米ソの対立じゃない、むしろ後者には第三世界の民族をたくさん盛り込んだ。

 最近のきみの活動は、ともかく映画と切っても切れないわけだけど、さらに石井聰互氏との共同製作についても聞いている。

ギブスン 石井氏のヴィデオ・クリップを友だちに見せてもらったんだ。彼の『逆噴射家族』は純文学ものとして傑作だった。『狂い咲きサンダーロード』には驚かされたなあ、あれこそホントのサイバーパンク映画じゃないか。

 というと、ギブスン=石井作品もサイバー・カウボーイものになるのかな。

ギブスン それは相談してみないとわからないけど、とにかく石井氏の映像にはもうぞっこんなんだ。個人的には、電脳空間にだけは戻りたくないんだが。

 小説の話にしようか。きみは電脳空間ものには属さない長編『ムスタング・サリイの日誌』も並行執筆中ってことになってる。

ギブスン 残念ながらそれは中断してるよ、ブルース・スターリング(テキサス州オースティン在住、早川文庫に長編『スキズマトリックス』)との共作ほうが先決問題だ。蒸気機関と一緒にコンピュータがすでに発明されていた、という設定の歴史改変ものさ(編註:のちの『ディファレンス・エンジン』)。

 ブルースはむかし、きみがアップルを買ったころ、「いよいよパソコン通信で共作ができるぞ!」とワクワクしていた。

ギブスン 安さにつられて買ってみたら、ボクはたまたまブルースのと同じ機種のアップルだったのさ。つないでもみたよ、しかし何といってもヴァンクーヴァー=オースティン間だからね、とにかくカネはかかるけど、ただしこれがおもしろい。

 それにしてもずいぶんたくさんのスケジュールをかかえてるんだね、いったい帰国したらどれから先に片づけるつもり?

ギブスン まずロサンジェルスに寄って、エド・プレスマンに会うよ、映画『ニューローズ・ホテル』の件で。実は彼から「東京を見るまで、まだ脚本にはいっさい手をつけるな!」と命じられてたんで、帰朝報告をしなくちゃ。だからジョンとの仕事をまずやる。つぎにブルースとの共作をスタートする。

 ここで思い出すのは、きみが『ニューロマンサー』をタイプライターで書いたという事実だ。ワープロ導入はそのあと。この時点で名実ともにローテクからハイテクへの転換が行われるわけだけれど、どうなんだろう、執筆手段の差異は創作方法をさほど左右するんだろうか。

ギブスン ワープロはすべてを自動化するだけだ、作家としての経験を左右するもんじゃない。何か微妙に変化をきたしたところもあるようだけど、それはうまくいえないなあ。ともあれ人生はあまりにも短い、ボクはもう絶対タイプライターは使わない。

 というのも、タイプライターを使おうがワープロを使おうがきみにとっての電脳空間はつねに想像力の産物として微動だにしないわけで、このことは今回の来日に関しても非常に愉快な類推アナロジーを導き出す。つまりきみが抱きつづけた「日本への思い」が実際の「日本への訪れ」によって少々の幻滅を覚えたとしても、あの「千葉市チバシティ」に代表される想像力の産物には何ら支障はないんじゃないか。

ギブスン まったく同感だ、その類推アナロジーは気にいった。ただし、作品には影響せずとも、日本に対する意識には少々変化が生じたような気がする。まず、来てみて自分の日本観が当たってたな、という感動があった。これは運が良かったのかもしれないし勘が働いたのかもしれない。ところが、何よりも衝撃だったのは、この国が実に見慣れた風景に満ち満ちていたことさ。すぐにでも適応できてしまう。六本木や神田を歩いていて、ほんの時たまこう思いだすだけだ、「ボクは日本に来てるんだっけ!」。(笑)東京という都市には、それほどに「異国離れ」したところがある―他人事とは思えないんだ。

 ニューヨークと比べてどう?

ギブスン はるかに東京のほうがいい。ボクはロンドンがお気に入りなんだけど、東京はどこかロンドンに似ている。ロンドンは経済的には左前だが、都市機構の雰囲気が東京を連想させる。

 初期短編「記憶屋ジョニイ」なんかに、きみ自身が住んでるヴァンクーヴァーの影響はないのかな。ダウンタウンはいま新宿シンジュク・歌舞伎町並みに猥雑らしいから。

ギブスン あの「夜町ナイトタウン」は、むしろニューヨークの環境に材を得ている。マンハッタンには、ひとつのネオンサインを眺めると無数のイメージがわきおこってくるようなところがあるからね。いっぽう、ヴァンクーヴァーってのはそれほど情報レベルが高くない。何事もゆっくりムードだし、むかしカリフォルニアについていわれてたような意味で「レイドバック」しちゃってるんだよ。
 そうそう、ワイフが日本人に英語を教えてたんでいっぱい日本人の知り合いがいるんだけど、連中のいた東京は相当に緊密な記号連鎖で形成されていたわけだろう。それがヴァンクーヴァーに来るといやおうなしにスロー・テンポに合わせなくちゃならない、「リラックス」しなくちゃならない。まあ三ヶ月が限度かな、たいていそれぐらい経つと、こうぼやきはじめるよ――「さあ、いま帰国しないともう日本のテンポに再適応できなくなるぞ!」。

 つい最近、きみの新作長編、つまり電脳空間三部作の完結編『モナリザ・オーヴァドライヴ』(バンタム・スペクトラ社刊、早川文庫で訳出予定)を部分的に読む機会があった。第一章にあたる「スモークの中のクミ」(『花椿』三月号訳出)と、前半のどこかに来るとみられる「銀色の散歩道」(米国麻薬雑誌『ハイ・タイムズ』87年11月号)と。このふたつは、片やヤクザの親分の娘が緊急事態で「幽霊」発生器を携えロンドンに逃がされる物語、片や『カウント・ゼロ』のアンジーがヴィデオ・スターになって人気を集めている世界の物語と、まるでちがうムードなのは例によって多重プロットのせいだと思うんだけど、顕著だったのはむしろ都市の書き方だった。千葉市チバシティの描写なんかあてずっぽうだったらしいのに、今度はたとえば「クミ」の章の上野ウエノ銀座ギンザの描写を見るかぎり、まるでキチンと地図でも参照したかのように正確だ。

ギブスン 日本の読者を意識したのは認めるよ。もっとも、地図というより、あれはエドワード・サイデンステッカーの名著『ロー・シティ、ハイ・シティ』を読んだせいだね。ブルースの短編「江戸の花」(『SFマガジン』86年10月号)もあの本に触発されている。今回の日本は、だから非常に豊かな国、豊さゆえに過去再生の余裕さえある国として提示される。そして、『カウント・ゼロ』では三つの物語が交差したが、『モナリザ・オーヴァドライヴ』では四つの物語が交錯する。

 最新作は電脳空間三部作においてどんな役割を演じるんだろうか。

ギブスン やはり前二作を掘りさげることになるよ。これまでの課題を解決するのに、ぼく自身があの二作を根本から問い直してみたんだ。電脳空間がなぜヴードゥーの神で充満するのか、その解答も与えられる。モリーも年を重ね、名前をちがえて再登場する。

 きみはこれまで「サイバーパンク」なる名称をどちらかというと避けてきていて、ようやく最近公認したかに見えたら、この長編がサイバーパンク総決算になるわけか。

ギブスン 結局この用語が一番便利だからねえ。それに「サイバーパンク」によって示されるのがあくまでひとつのスタイルであるかぎり、必ずしも文学ジャンルにこだわらなくてもよくなる。

 この間コロンビア大学からエモリー・エリオット編の大部な『アメリカ合衆国文学史』 が出版されたけど、そこでも「現在文学」の章の筆者ラリイ・マキャフリイが「サイバーパンク」と「ミニマリズム」をふたつのスタイルとして対照させる書き方をしていた。

ギブスン SFのほうだって、べつだんマイクル・スワンウィックが分けたような「サイバーパン対ヒューマニスト」ばかりが80年代SFスタイルのすべてじゃないさ。本当の対抗馬は、たとえばジェイムズ・ブレイロックみたいな優れたスチームパンクかもしれないし、あるいはアルジス・バドリスらが推進しているあのウサン臭いサイエントロジーかもしれない。

 このへんで、日本の読者の参考のために、きみの選ぶ主流文学とSFの各々ベスト5を挙げてもらえないだろうか。

ギブスン 主流文学では、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、トマス・ピンチョンの『重力の虹』、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』、それにジョージ・オーウェルの『一九八四年』。SFでは J・G・バラードの『クラッシュ』、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』、サミュエル・ディレイニーの『ノヴァ』、キングズレイ・エイミスの『去勢』、それにフィリップ・ K・ディック『高い城の男』、そんなところだ。

 きみはディックの影響を否定してたよね。

ギブスン 『高い城の男』はむかしボクの読んだ唯一のディック作品だった。それはいまも他のディック作品とは一線を画しているように見える。だから、いわゆる「ディッキアン」の趣味で選んだんじゃないんだ。

 でも、『高い城の男』が挙がるのはわかるような気がするよ。あれはたぶん歴史改変ものであると同時に、ディックの中では一番無国籍性の強いSFだと思う。そしてきみはアメリカを捨ててカナダへ国籍離脱したコズモポリタンだ。あるいは、これこそぼくの仮説なんだが、むしろ根っからのコズモポリタンゆえに国籍離脱者とならざるをえなかったんじゃないか。

ギブスン わかった、国籍離脱のメリットを明かそう。19歳でボクはトロントへ行った。何とそこはニューヨークやロサンジェルスよりはるかに暮らしやすかったんだ。衝撃だったね。その意味で、以来ボクはたえず衝撃のある生活をつづけ、しかもそれを楽しんでる。東京だってそうさ、異国でありながら異国じゃない。これがセンス・オヴ・ワンダーじゃなくて何だろう? 

渋谷 NHK前 無国籍料理店 スンダ( Sunda)にて


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DIALOGUE II
SFをゆり動かす――テクノロジーを批判する自分たち自身がすでにテクノロジーの産物なのだ
ブルース・スターリング VS 巽孝之
『週刊読書人』1988年5月2日


1:ポップ・カルチャーとはニワトリとタマゴの関係

Bruce Sterling


 きみはたしか 1970年ごろに初来日している。

スターリング 父親がエンジニアでプラント建設に関わってたんで、家族ぐるみ外国をどびまわったもんだ。まだ高校生だったよ。当時に比べると東京もずいぶんきれいになった。

 散歩でもしてみたかい。

スターリング ああ、朝早く起き出して、武道館ブドーカンの桜並木のあたりをぶらぶらした。それにしても日本の子供たちは土曜でも登校しなけりゃならないんだな、タコでもあげてたほうがいい天気だぜ(笑)。もっとも、これはアメリカ人が怠け者だから考えるんだが。

 そう、日米はいろんな点で違う(笑)。たとえば、このところ、日本でもいよいよサイバーパンク現象なるものが広く浸透しはじめている。ここではあらゆる流行が消費されてて、流行に左右されないのはそれこそ「流行」だけなんだけど、それもこれも日本が本質的に時間の国だからだろうね。国土がせまいぶんだけ時間の先へ先へとフロンティアを開発していかなくちゃならない(笑)。いっぽうアメリカは本質的に空間の国だから、国土の広さに比例してあらゆるものが共存できる。サイバーパンクにしても事情は変わらない。ただし、日本では「サイバーパンク現象」であっても、きみの国ではこれはあくまで「サイバーパンク運動」としてもりあがった。そしてきみこそ運動の理論的指導者、いわば「サイバーパンク党書記長」だ。日本人には不慣れな「運動」の概念について、ひとまず紹介してくれるとうれしい。

スターリング サイバーパンク運動は、SFの品質管理システムとでも考えてくれ。アメリカSF界にはびこる安物商品をなんとかしなくちゃ、という危機感にかられた連中が集まって、SFを改良しようとしてるのさ。決して多くの同志がいるわけじゃないが、逆に少数精鋭だからこそ意味をもつ。そのうち外部の奴らがこれを「運動ムーヴメント」と呼びだした。なるほど、そうかもしれない—おれたちはあくまでSFをゆり動かそうムーヴとしてきたからね。

 そのためにもきみは、ジョン・ケッセルをはじめとするヒューマニストSFの書き手たちと活発な論争を重ねている。

スターリング 論争ってのは役に立つ。あらゆる思想は、試してみなけりゃはじまらないからだ。口先ばかりで品質管理を叫んでみても、何ひとつ生まれはしない。ひとつの考え方に盲信することは不可能なんだな。たとえば、おれたちは日本でロック・スターなみに扱われてるが、その裏には盲信がある。

 だけど、きみは昔、サイバーパンク作家はポップ・スターみたいなものだなんていってたじゃないか。

スターリング ロック・スターとポップ・スターはちがうぞ。年をとったらロックはやれない。しかしブルース・ミュージシャンを見ろよ。ジャズ・ミュージシャンを見ろよ、連中は年齢に応じて変化していく。その音楽はあくまでポップであって、しかも永遠の命を持つ。作家だってそうさ、議論を重ね、アイデアを取り引きしながら、刻々と変容してる。おれたちの仕事に終わりはない。

 サイバーパンクがポップ・カルチャーに関心を抱くのは、きみの編集したサイバーパンク傑作選『ミラーシェード』(早川文庫)の序文でも強調されていた。そしていまでは、サイバーパンクが逆にポップ・カルチャーに大きな影響を与えはじめてもいる。

スターリング ニワトリとタマゴみたいなもんでね、おれたち自身がその影響なるものに生み出されちまった存在なのかもしれない。サイバーパンクはポップ・カルチャーの重要性を認めるばかりか、自らがポップ・カルチャーの一部と思うあまりに、きちんと理解しようとするんだ。表面だけではなく、その深層構造をも垣間見て、見えざるものを見えるようにしてやりたい。

 それは、SF以外にも広く応用可能な論理だと思う。

スターリング 典型的な例はフェミニズム運動だろう。彼女たちは女性の不満を発明したわけじゃない、むしろまさにそれを発見したんだ—それまで見えなかった不満を暴露したんだ。サイバーパンクにしてもそうだよ。この造語ができて、それまで見えなかったものがいった見えはじめたら、たちまちみんなの眠気覚ましになったわけさ。

 今年のネビュラ賞候補作に挙げられたきみの短編「江戸の花」(『SFマガジン』86年10月号)も、異国の歴史ものというかたちをとりながら、明治時代の深層構造はもちろんテクノロジー社会の深層構造のほうにまで切り込んだ作品だった。

スターリング あれはおれの短編のうちでもいちばんポピュラーな作品になりつつあるね。テクノロジーを鬼のイメージで浮かび上がらせて、同時にまさに鍾馗のように鬼退治に向かう人間像も対置した。この鍾馗ってやつが、実をいうとおれの考える現代作家のイメージにいちばん近い。たとえば、ヒューマニストSFの連中がそうだ。やつらは鍾馗よろしく顔を真っ赤にしてはテクノロジーを批判するが、誰より自分たちの黒冠の中にこそ小鬼が隠れているのに気がつかない。自分たち自身がすでにテクノロジー社会の産物であるという深層構造に気づいてないんだ。大切なのはテクノロジーを動かすハードウェアどころか、むしろソフトウェアのほうだ。

2:プリゴジン理論が深層にある『スキズマトリックス』
 長編『スキズマトリックス』(早川文庫)はバイオテクノロジーで生体改造された人間であふれかえってるね。あそこまでいくと通常の年齢概念なんか一気に崩壊するように思うんだけど、基本的には「古い世代」に「若い世代」が反旗をひるがえすという、いささか古典的なモチーフがしっかり設定されている。テクノロジーと世代の問題は、どういう論理でつながってるんだい?

スターリング ひとつには長命がいかに可能かというテーマへのこだわりがある。たとえば、避妊薬ピルができてはじめて女性は解放された。それまでは技術的に不可能だったんだから、いたしかたあるまい。同じことが長命薬というアイデアにもいえるんだ。以前できなかったことができるようになれば、人々はその可能性を前提とするようになるばかりか、かつてそれが不可能だったことについてさえ怒りをあらわにするものさ—怒れる若者たちふうにね。こうしてテクノロジーの有無を境に世代間の葛藤が生まれてくる。

 『スキズマトリックス』はきみ自身によると「サイバーパンク決定版」とのことだが、この哲学的スペースオペラは同時に「ワイド・スクリーン・バロック」(ブライアン・オールディス)の典型とも呼べるだろう。しかも、サミュエル・ディレイニーよりはバリントン・ベイリーに近い。

スターリング あのなかでおれはPDKL95という麻薬を登場させてるけども、あれは実はベイリー初期長編『スター・ウィルス』 (70)に出てくる麻薬DPKL59のアナグラムなんだな。ベイリーの麻薬ってのは、そいつを飲むと理解力が増進して科学書でも難なく読めるかわりに、本の内容よりも、ただものすごい冒険をしたという実感だけを残してくれるシロモノでね。まったくすばらしいアイデアだよ、この作用こそSFの読後感そのものだ。おれたち幻視者の経験のメタファーになってるんだ。

 日本では『カエアンの聖衣』『禅<ゼン・ガン>銃』が訳されて以来(ともに早川文庫)、ベイリー人気はうなぎのぼりなんだけど、英米ではいまひとつのような気がする。文章が読みにくいせいだ、というひともいた。

スターリング おれはベイリー作品だったらほとんど読んでるが、彼こそはホンモノのSF作家だ——幻視者中の幻視者だ。ベイリーSFが人気を得にくいのは、それがホンモノだからさ—めったに見つからない稀覯本ないし選定書中の選定書みたいなもんでね。だからこそ彼の書くものはつねにホンモノのSF読者だけを喜ばせる。おれなんかベイリーを読むたびに「ああ、おれのしごとは正しかったんだ」と確信していく。その意味で、おれはベイリーの弟子だ。ベイリーこそはおれの先生だよ。

 もっとも『スキズマトリックス』に関するかぎり、きみのアイドルはもうひとりいる。イリヤ・プリゴジンだ。きみの住むテキサス州オースティン市には彼はまだ滞在しているのかい?

スターリング ああ、プリゴジンはいまでもテキサス大学オースティン校の客員教授を続けてるからな。半年ごとにオースティンとブリュッセルを行ったり来たりしてる。いずれにしても、自分の町にノーベル賞受賞者がいるのはたいへんな名誉だ、町の野球チームを自慢するよりはましだぜ(笑)。

 プリゴジンの「散逸構造」はもちろん撞着語法オクシモロンなんだけど、実はこれこそ『スキズマトリックス』命名のヒントだったんじゃないか。散逸構造に関する教養小説ビルドゥングス・ロマン、というのがあの長編の本質のように思うんだが。

スターリング そのとおり、おれの生体工作者シェイバー機会主義者メカニストシリーズのなかじゃ『スキズマトリックス』や「蟬の女王」(『SFマガジン』86年1月号)なんかが、プリゴジン理論を深層構造にしてる。プリゴジンを一種の宗教カルトにみたてたってわけだ。

3:6年間暖めた奇抜なアイデアをギブスンとの共作で
 ところで、サイバーパンク作家たちというのは運動の戦略もあって共作をよくするけれども、それはたとえばきみの場合、昔から創作ワークショップに参加していたことが大きい。クラリオン・ワークショップ、ターキー・シティ・ワークショップ………そして最近きみとウィリアム・ギブスンは、とうとう共作長編『ディファレンス・エンジン』に手を染めた。これはヴィクトリア朝に蒸気機関コンピュータが発明されていたという設定に基づくもので、ある意味ではジェイムズ・ブレイロックや K・W・ジーターなんかがやってる「スチームパンク」のようにも聞こえるんだが。

スターリング 『ディファレンス・エンジン』のアイデア自体は、おれが82年に思いついてからというものずっとギブスンと温めてきた。これまでは書きかたもわからなかったし時間もなくてとりかかれなかったが、とにかくこんなとてつもないアイデアは作家の人生のうちでもめったに降ってくるもんじゃない。やるとなったら、とほうもないパワーがいることだけはたしかだからな。

 むこう6年間も秘密にしてきたというわけか。

スターリング そう、ところがその間誰も同じアイデアでやる気配がない。それで共作しはじめて、いま4分の1ぐらいまで終わったとこだ。アイデアだけだとまるでガジェット小説みたいに聞こえるだろうな、チビの蒸気機関コンピュータがシュッポシュッポ活躍するような雰囲気の。だけど、たぶんできあがりは産業革命の概念を問い直すテーマが重たい、奥行きの深い小説になると思う。みんなが避けたがる奇抜なアイデアを選んだ点では、きわめてサイバーパンク的でもある。

 きみ自身の新作『ネットの中の島々』もそろそろ出るころじゃない?

スターリング ギブスンはゲラで読んで、これは「賭け金つりあげ」みたいなものだ、といってくれたよ。他の連中が今後もゲームを続行したいんだったら、これ以上の賭け金を支払うしかない。『ニューロマンサー』(早川文庫)がそんな本だった。あれ一冊でゲーム料金がきまっちまって、他の作家は割のあわない思いをしたんだ—さらに賭け金をつりあげるにはどうしたらいいか、ってね。

 そのせいだろうか、サイバーパンクは最近ポップ・カルチャー及びアカデミズムという「ふたつの文化」双方から注目されている。きみ自身この六月にはSFRA(SF研究協会)の年次大会に招聘された。これもひとつの可能性だろうか。

スターリング おれたちはもともと昔流のふたつの文化—文学と科学—のみなしごだからな。どちらにも属さない代わりに、おもしろいと思えばどんな文化でもパクってくるんだ。そして連中の思いもつかないようなかたちで使ってみせるんだ。あらゆる文化の境界線は本質的に曖昧なのさ。ただし、そういうパクリから何かが生まれてこないとはかぎらない。

 そういえば、きみはもう生体工作者シェイバー機会主義者メカニストシリーズも続けず『ミラーシェード』も続巻しないと聞いている。

スターリング 『ミラーシェード』ではポール・ディ=フィリポやマーク・レイドローといった新人の存在も世間に知らせることができたし、おれたちもサイバーパンク読者層をつかむことができた。あとは見てのお楽しみさ。ひょっとしたら数年後には、おれたちはもうサイバーパンク作家でさえないかもしれない。単に作家ウィリアム・ギブスン、作家ブルース・スターリングと呼ばれるようになるんじゃないか。

九段下・ホテル・グランドパレスにて

Bruce Sterling



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【関連リンク】
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【関連書籍】
『サイバーパンク・アメリカ (KEISO BOOKS)』(勁草書房、1988年)

『ウィリアム・ギブスン (現代作家ガイド)』(彩流社、1997年)

『サイボーグ・フェミニズム』(増補版、水声社、2001年)


『日本SF論争史』(勁草書房、2000年)


Patrick A. Smith, ed. Conversations with William Ginson (UP of Mississippi, 2014)

Larry McCaffery, ed. Storming the Reality Studio: A Casebook of Cyberpunk & Postmodern Science Fiction (Duke UP, 1991)


『SFマガジン創刊700号』(2014年7月号)

『SFマガジン』(2014年11月号)