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伊藤恵子氏との出会いは奇遇だった。
わたしは 2015年度より、文科省科研費個人研究で「モダニズム文学形成期の英米における慶應義塾の介在と役割」なるテーマの調査を進めているが、そのゆえんのひとつは、 20世紀前半における横浜正金銀行ロンドン支店とそれをめぐる慶應義塾周辺の文学者たち、知識人たちの関係を探るうちに、20世紀初頭に横浜正金銀行ロンドン支店長を務めた祖父・巽孝之丞のことを記した一冊の書物に行き当たったことにある。2001年、伊藤恵子という経済史家がラウトリッジ社より刊行した『戦前のイギリスにおける日系共同体』(The Japanese Community in Pre-War Britain: From Integration to Disintegration
@伊藤恵子氏宅 2014年 8月 22日 |
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たとえばヒロインの綴る日記のうちでも 1945年 8月 6日の項目を見よ。
“High above the blue skies float strips of clouds that look like fish scales, and I can already feel an early autumn breeze. . . . And I overheard Japanese neighbours in the building saying that radio broadcasts from military headquarters report important Japanese victories against the encroaching Americans. I wonder if this means that we are close to war’s end, that a settlement for peace can finally be worked out” (pp.310-311).
この日付を見れば、現代人ならばほとんど脊髄反射的に広島への原爆投下を連想するであろう。したがって、この項目にそのことが一言も触れられておらず、戦局の悪化を懸念しつつも静謐な日々が続いていることに違和感すら覚えるであろう。しかし、これが戦時中の上海における若い主婦が見たリアルタイムの日常感覚であることを、わたしは否定することはできない。著者はあえてヒロシマに言及しないことによって、メディアの情報ネットワークが必ずしも万全でも即時的でもなかった当時のリアリティを醸し出している。それは、日記の記述が静謐をきわめるほどに、戦争の残虐を暗示してやまない。ちなみに、細かなことだが、本書の最初のほうには、この日記帳自体を自身の親友と見なすくだりが出てくる。それは、かのアンネ・フランクが『アンネの日記』( 1947年)において自身の日記帳を「キティ」と人格化して呼んでいたことを彷彿とさせる。
かくしてロンドン在住の経済史家にして小説家でもある伊藤恵子氏がたまたまこの 2月、3月と来日(帰国?)されることになったので、慶應義塾大学藝文学会とわたしの科研費により、これまでの経済史研究ともからめたお話をしていただきたいと思い、 2016年 3月 9日(水曜日)午後 3時より、本塾北館第二会議室にて、「歴史家が小説を書く時」をテーマの講演をしていただいた。横浜正金銀行ロンドン支店の気風がいわゆる Noblesse Oblige であること、小説『わが上海』の登場人物は実在する人々をモデルにしているもののエピソードの大半は虚構であること、 8月 6日の日記はあとから加えたほうがいいと考えて入れたが、ただし 8月 9日の日記に関しては「空が奇妙なオレンジ色に変わった」という描写によって長崎に原爆が投下されたことを匂わせたことなど、パワーポイント映像を駆使したスライドショーとともに有意義な注釈を窺うことができた。講演会にはキシモト夫妻の長男カズとして表紙写真にもなっている著者の実兄・伊藤公一氏やその御子息である本塾理工学部教授・伊藤公平氏、作家の茅野裕城子氏や野中柊氏らが来場され、生粋の日本人が英語で小説を書く意義など、充実した質疑応答が交わされた。
伊藤恵子氏のウェブサイトは下記のとおり。
http://keikoitoh.com/
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【講義情報】
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藝文學會講演会「歴史家が小説を書く時——My Shanghai, 1942-1946 を中心に」
日時:2016年 3月 9日 (水) 午後 3時〜 5時
会場:慶應義塾大学三田キャンパス 北館一階第二会議室
講師:伊藤恵子(作家、歴史家)
司会:巽孝之(本学文学部教授・英米文学)
主催:慶應義塾大学藝文學會、文部科学省科学研究費助成事業基盤研究 (C) 15K02349「モダニズム文学形成期の慶應義塾の介在と役割」
【関連リンク】
■藝文學會講演会「歴史家が小説を書く時——My Shanghai, 1942-1946を中心に」講師:伊藤恵子先生(作家、歴史家)/司会:巽先生@三田キャンパス 北館一階第二会議室 15:00-17:00(CPA: 2016/02/28)
■【Event Photos】2016/03/09:藝文學會講演会「歴史家が小説を書く時——My Shanghai, 1942-1946を中心に」講師:伊藤恵子先生(作家、歴史家)/司会:巽先生@三田キャンパス 北館一階第二会議室 15:00-17:00(CPA: 2016/03/11)
■慶應義塾大学文学部藝文學會
【関連書籍】
Keiko Itoh, The Japanese Community in Pre-War Britain: From Integration to Disintegration
Keiko Itoh, My Shanghai, 1942-1946