#15 New York Literati 1986

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前注
アメリカ文壇 1986
巽 孝之

ここにお蔵出しするのは、今から 34年遡る 1986年 1月、コーネル大学大学院留学時代に参加した国際 PENニューヨーク大会のレポートである。初出はイスカーチェリ SFクラブ副会誌『 Red Waggon』第2号( 2-15頁)。

当時の私は、 31歳。1984年以降、大学院では予定通りアメリカン・ルネッサンス文学のアカデミックな研究に没頭しつつ、 他方では 1985年に突如として勃興したサイバーパンク運動の代表作家たちや彼らをめぐる編集者、学者批評家たちと語り合いジャーナリスティックに記録する生活だった。文学研究としては「とうに死んだ作家」の研究を極め、SF批評としては「たったいま生きている作家」との出会いと対話を繰り返すという、まことに不可思議な日々を送っていた。

折も折、指導教授のジョナサン・カラーによる強い勧めで黒人文学者ヘンリー・ルイス・ゲイツの授業を取ったことは、この二重生活を何らかの形で正当化することになったと思う。というのも、課題リストの中からサミュエル・ディレイニーを選んで『アインシュタイン交点』論のタームペーパーを提出し、たまたま作家自身のインタビューも取ったので教授に見せたところ、大いに気に入ってもらったからだ。かくしてゲイツ教授の推薦で批評誌『ダイアクリティックス』1986年秋季号に掲載が決まり、おそらくはそれがきっかけで、ディレイニー自身がコーネル大学人文学研究所特任教授として赴任することになったのである。

この経験は単著デビュー作『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房、1988年)で詳述しているが、しかし、同書を貫く精神の根本を形成しながらも、あえてそこに盛り込まなかったのが、ここに復刻する、400字詰め換算 40枚強のレポートだ。

ここには、ディレイニーのみならず、ディッシュやクロウリーやヴォネガット、イシュメル・リードら主流文学と SF小説のはざまを縫う作家たちが 1980年代のアメリカを席巻していた群像劇がある。その真っ只中で、アメリカ PENクラブ会長ノーマン・メイラーと副会長スーザン・ソンタグの「文学と政治」および「女性作家の位置」をめぐる激越な論争が介入する。そう、「何かが起こっている」ことを実感するあまり、自ら可能な限り正確を期し調査を重ねてレポートしたこの文章は、仮に見たくてもそうそう見られるものではない「アメリカ文壇」そのものの一角を現在進行形で伝え、そこにノーベル賞候補とささやかれていた南米作家マリオ・ヴァルガス=リョサや南アフリカ作家ナディン・ゴーディマ、ドイツ作家ギュンター・グラス、日本作家安部公房や中上健次らが入り乱れる世界文学的構図を、期せずしてスケッチすることになったのである。まだ 30歳を超えたばかりだったので若いエネルギーをフル回転させたからこそ可能となったジャーナリズムの成果であり、ここで培われた現在アメリカ文学および世界文学のヴィジョンは、以後、アカデミズム内外における私のすべての著作に活かされることになる。

こんな仕事は、もう二度とできない。

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New York Literati 1986
窓からセントラル・パークが見える
――第 48回国際 PENニューヨーク大会レポート――
巽 孝之

「ノーマン・メイラーとスーザン・ソンタグが大ゲンカしたよ、今日のパネルで」

1986年 1月 13日(月曜日)の晩、電話の向こうでサミュエル・“チップ”・ディレイニーはこう言った。この時私はまだ留学先のコーネル大学のあるニューヨーク州イサカにいて、すでにマンハッタンでは第 48回国際 PEN大会( 1986年 1月 11日〜 17日)が開かれているのは知ってはいたものの、全篇参加できる体力も経済力もないし、どうしたものやら悩んでいたところだった。そこへ、アメリカ PENクラブ会長メイラー(注:1923〜 2007年)と副会長ソンタグ(注:1933~ 2004年)をめぐる強烈なニュースが飛び込んだのだから、刺激を受けないわけがない。

とはいえ、ニューヨーク州といっても広いのだ。北海道と九州を合わせたぐらいの面積がある。イサカのあるのはニューヨーク州北部( Upstate New York)で、むしろカナダ国境に近く、通常日本人がイメージするニューヨーク・シティすなわちマンハッタンまで、バスで 5時間、飛行機でも 1時間はかかる。チップへの電話も、むしろ昨秋ペンシルヴァニア州ヨーク市での地方大会 NOVACON( 1985年 11月 1日〜  3日、『 SFマガジン』 86年 2・3月号拙稿「アメリカSFグラフィティ」参照)で行った彼とのインタヴューがようやくテープ起こし完了できたので、その報告が第一義だったのだ(注:この時のインタヴューは前注の通り、のちに北米批評理論を牽引する学術誌『ダイアクリティックス』 Diacritics 1986年秋季号に掲載され、のちにディレイニー自身のインタビュー集 Silent Interviews: On Language, Race, Sex, Science Fiction and Some Comics [Wesleyan UP, 1994]に再録される)。

「あなたも出席されたのですか」
「いや、スーザンの友人から聞いた話なんだ。そう、ぼく自身も水曜のパネルには出ることになっている、トム・ディッシュやレスリー・フィードラーなんかと一緒にね」
「本当ですか?あなたも誰かとケンカする破目になるかもしれませんね」
「心配ない。ぼくは羊のようにおとなしい作家だから」

これがきっかけで、筆者は国際 PENニューヨーク大会第 2日目から最終日まで、なんとしても参加しようと決心した。一昨年の第 47回国際 PEN大会は、『イスカーチェリ』 26号波津博明レポートも知らせるとおり、東京で行われたから、それに参加して長年愛読してきたカート・ヴォネガットと歓談できたのはひとつの奇遇と思っていたが、まさか第 48回で、しかもかのノーマン・メイラーとヴォネガットが実質的な共同実行委員長となるニューヨーク大会になるとは予期しなかったから、これはもうひとつの奇遇と言えよう。

もっとも、会場の設置されたサン・モリッツ・ホテルとエセックス・ハウスは 5番街に近いうえ、セントラル・パークを借景とする高級ホテルであり、さすがにいきなり泊るわけにはいかない。常宿にしている 2番街 51丁目のピックウィック・アームズ(東 230番地)にあわてて 3泊分を予約。

むろん、予兆は確実にあった。

折も折、開会式当日発売の『ニューヨーク・タイムズ』紙書評欄( 1986年 1月 12日号)には、目下ジュネーヴ大学で教鞭を執る文学批評界の巨匠、ジョージ・スタイナーが「監視される言語――作家と国家と」なる一文を寄せ、今回の大会テーマをチクリチクリと皮肉っている。 

『作家の想像力と国家の想像力(“The Writer’s Imagination and the Imagination of the State”)――なんともそらぞらしいフレーズである。だいたい文法がおかしい(引用者注・「作家の」“The Writer’s” にそろえるなら「国家の」も “of the State” ではなく“the State’s” にして “Imagination” の前に置くのが正しい文法というわけであろう)。そしてウィリアム・ブレイクやジョージ・オーウェルが想起させてくれるように、文法がおかしいところには、必ず何か悪い知らせが潜む。(中略)
ところで、今回の国際 PENの統率者はあのノーマン・メイラー氏だが、氏といえば古典的名作『夜の軍隊』をもって鳴る名文家であるから、こんなテーマをひねりだしたのがまさかメイラー氏御自身とはとうてい私には考えにくいところだ
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ちょうどこの新聞が行き渡ったころ、アメリカPENクラブ会長メイラーは「職権濫用」のかどで会員大多数の非難を一身に浴びていた。5時からニューヨーク市立図書館内南閲覧室で行われた開会式に、彼の独断によってロナルド・レーガン政権を支えるジョージ・シュルツ国務長官を招待したうえ、スピーチまで要請したためだ。

これがいかに「独走」のきわみであったかは、副会長職にあるソンタグとナディア・ゴーディマー(南アフリカ)が中心となり 66名もの PENクラブ会員が抗議文をすでに事前に叩きつけていたことからも推察される。その骨子は以下の通り――「シュルツ氏の行政が助長する政府のかたちとは、たとえば市民をその信念しだいで沈黙させ、投獄し、ひいては拷問にかけるものであり、国の内外を問わず表現の自由を促進するうえでいささかも役立つものではありません。しかも、かつてシュルツ氏の指揮により、アメリカ国務省はマッカラン=ウォルター法のもと多くの作家たちを追放したのですから」 

マッカラン=ウォルター法とは 1952年に制定された移民国籍法で、赤狩りで悪名高いジョゼフ・マッカーシー上院議員の思想と深く共鳴するものである。それに依れば、外国人にして共産主義ないし無政府主義の団体に属する者、もしくは属していなくとも同様の思想を喧伝する者に査証ヴィザは与えられない。だがメイラーからこの抗議文を見せられてもなお――見せられたからこそ?――スピーチを敢行したシュルツ氏は、この条例が目下適用されぬことを公言し、むしろいささかの拍手さえ浴びてしまう。のちに公表されたシュルツ演説の概略によれば、彼は「作家は自由を必要とすると同時に自由を創造してゆくもので、いかなる政府もイデオロギー体制もこれを喰い止めることはできなかった」と切り出し、「国家は社会の秩序を、作家は想像力の秩序を築きあげるもの」と区別しつつも、「時として両者の関係は友好的となり、また両者間の緊張は抑圧的というよりも創造的になりうる」と断言してさえいる(『ニューヨーク・タイムズ』 1986年 1月 19日号)。およそこの全文を読むかぎり、きわめて弁舌さわやかなのだ。そう、以後の新聞報道がことごどく「シュルツ・ショック」に引きずられた文調である方が何だか異様に映るほどに。 

問題はだから、今回メイラーがシュルツというモチーフを得て、スーパースターというよりもトリックスターを演じきってしまった点にあろう。しかも冒頭ディレイニーが言及した「大ゲンカ」の原因は、おそらくシュルツ・ショックのみに限定されない。『ニューヨーク・タイムズ』 1986年 1月 18日号によれば、この時のメイラーが「スーザン・ソンタグ氏のように第一に知識人であり、さらに詩人で小説家でもあるという女性作家はさほど多くない」と口走ったことで多くの女性作家たちを憤慨させ、弁明を求める動きすらあったからだ。ともあれ記念すべき開会式を引き金に、彼の名声に相当な傷がついたことはまちがいない。 

スタイナーからは「文法ミス」を指摘され、各紙報道では「右傾化」と形容され、しかも「知的なパネル構成は女性よりも男性を増加させることで得られる」というきわめつけ・・・・・発言を残しフェミニストからは「女性差別主義者」の名で弾劾されるに至ったメイラー(『ワシントン・ポスト』1986年 1月 18日号)。その一方で、ペルーのマリオ・ヴァルガス=リョサは、左右を問わず一切の非民主主義的制度を批判するのに熱弁をふるい、大いに男を上げて一躍スーパースターへの道を歩みだした。とりわけ最終日午前のパネル「国家の想像力を政治家たちはどうみるか?」(エセックス・ハウス内カジノ・オン・ザ・パーク、 9時〜 11時 30分)では、彼自身敬愛してきたガブリエル・ガルシア=マルケスの最近の政治的傾向をめぐり「ガルシア=マルケスは今やカストロ首相の芸者(クルティザンヌになりさがった」と発言してドイツを代表する作家ギュンター・グラスとの間に論争が起こったが、司会の歴史家アーサー・シュレジンガーが混乱を回避する進行に徹しようとしたために、一層議論は白熱し「時間延長」を叫ぶ声が飛び交ったほどである。「南米の熱い血」を聴衆全体が反復したかにみえたひとときだった。

ギュンター・グラス
けれども、ひるがえって考えてみるに、こうした PEN大会の騒動も、それが「祭り」であるがため、構造的に要請されたスキャンダルではなかったろうか。これは決して特異ではなく凡庸とさえ思える見解だが、にも関わらずこの大会期間中、少なくとも諸々のパネルの席上におけるかぎり、ついぞこうした分析はなされることがなかったのだ――そう、我らが安部公房の発言を除いては。 

今回スピーカーとして招かれた日本人作家には他に中上健次がおり、彼は「抵抗する文学者」なるパネル( 1月 16日、9時〜 11時 30分、エセックス・ハウス内カジノ・オン・ザ・パーク、司会イシュメル・リード)で語ったが、安部の現われたのは「演劇の諸問題」なるパネル(同 1時 30分〜 3時 45分、サン・モリッツ・ホテル内クォドリル大広間、司会リチャード・ギルマン)で、同席者には他にアーサー・ミラーもいた。ここでの安部の話はシンプルをきわめ、単に「国家の儀式化が現在、日常生活のレヴェルにおいても進行している。このことに警戒せねばならぬと思ったがゆえに、私は娘の結婚式にさえ出席しなかった」と要約すれば足りる。あまりに簡潔にすぎたせいか、さほど反響はなかったし、安部自身「私の話の 80パーセントはジョーク」と付言していたが、逆に考えれば「国家の儀式化を半ば(以上)ジョークで語りうるセンス」こそ、今回の PEN大会には欠如していたのではあるまいか。 

一夜にしてメイラーを悪役に、ヴァルガス=リョサを英雄に仕立て上げるこの単純明快さ………これもまた私の愛してやまぬアメリカ人気質そのものであり、まさしくマカロニ・ウェスタンの、スペース・オペラの、はたまたブロードウェイ・ミュージカルの PEN的「儀式化」と言えるのだけれども、当然ながら、すべての「単純明快なる儀式化」がそうであるように、ここでもまた数多くの差異がおおい隠されねばならない。たとえば、参加者のひとりの UNESCO事務局長アマドゥー・マトゥー・マ=バウなどは、その反イスラエル・出版統制・自由国家批判の姿勢によりシュルツ同様ボイコットされてもよかったはずなのに多くの作家は素通りしたし――これについてメイラーは皮肉まじりに「右翼の人間がやってくるとたいていみんな猛反対するんだが、極左の人間の場合だと静かなものさ」と述べた(『ニューヨーク・タイムズ』1月 15日号)――、パネル「疎外と国家――パート2」( 1月 14日 1時 30分〜 3時 45分、エセックス・ハウス内カジノ・オン・ザ・パーク)に出た亡命作家ワシーリィ・アクショーノフはアメリカの体制について深く感謝の意を表しているし、加えてアメリカ PEN運営委員のシンシア・マクドナルドはメイラーの募金活動を高く評価している(前掲紙 1月 18日号)。因みに、グラスはメイラーに対してはもちろん、ソール・ベローと民主主義問題について大いに論争をしたほか、前述のヴァルガス=リョサやアクショーノフとも、とにかく機会さえあればめったやたらに噛みついていたが、むしろ「盛り上げ役」に見えた。もうひとりのトリックスターと呼べよう。

すなわち、たとえ作家個々としてはさして珍しい言動を示していなくとも、PENという「単純明快なる儀式」の文脈にほうりこまれるやいなや、右の諸差異にも関わらず、メイラーはトリックスターを、ヴァルガス=リョサはスーパースターを、それぞれ演じるよう要請されるのである。

PENは基本的に劇作家( Playwright)、随筆家( Essayist)、小説家( Novelist)の頭文字を取ったネーミングだが、それはつまるところ、ペンで書く「人々」の集団にとどまらぬ―― PENという組織はそれ自体まさしく「ペン」として物語を書く・・・・・。そしていつの時代、いかなる場所においても、物語のうちには「単純明快なる儀式性」が必要とされている。 

ただし、おそらくそれ以上に必要とされているのは、真摯な「儀式挙行」の合い間に設けられるべきひとときの「お茶の時間」かもしれない。日本 PENの書いた物語において、「核弾頭には子供のオモチャを付けよう」と語るヴォネガット的ユーモアに肩透かしを喰らった向きは多かったかもしれないが、しかしアメリカ PENの書いた物語において、安部的ジョークこそ必要だったように思われるからだ。いや、より正確を期すならば、そもそもユーモアの時代からジョークの時代へと、私たちは足を踏み入れているのだろう。

その意味で、パネル「ウォルト・ホイットマンの翻訳」( 1月 13日、9時〜 11時 30分、サン・モリッツ・ホテル内クォドリル大広間)の司会者ジャスティン・カプランの逸話は、国家という「儀式の物語」をみごとにジョークでくるみ、安部をも彷彿とさせた――「昨晩娘のヘスターに言われました。『パパ、どうしてみんなチャールズ・・・・・・シュルツのことで大騒ぎしてるの?彼はステキな漫画家よ。彼のに出てくる“ピーナッツ”はすばらしいキャラクターなのに」(『ニューヨーク・タイムズ』1月 15日号) 

一滴のインクと同じく、一匙のジョークを。一匙のジョークと同じく、一杯のエスプレッソを――物語はつねに要請する。

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パネル「サイエンス・フィクション」
左から:クロウリー、フィードラー、ディッシュ、ディレイニー、バチェラー

さて、パネル「サイエンス・フィクション」( 1月5日、9時〜 11時 30分、サン・モリッツ・ホテル 31階スカイガーデン)では前述のとおり司会にトマス・ディッシュがあたり、パネリストとしてはサミュエル・ディレイニー、レスリー・フィードラー、それに若手ジョン・クロウリーとジョン・カルヴィン・バチェラーが顔をみせた。

まず驚かされたのは、プログラムに記載されたメンバーが 1名も欠けることなく定刻に集まってきたことである。というのも、聞けば正確を期すためプログラムのタイプが打ちあがったのは開幕前日だというが、それでもなお――例のシュルツ・ショックもあって――今回の PEN大会では各パネル完全に予定のパネリストをそろえて実現していたものの方がむしろ数えるほどだったからだ。

とはいえ、朝一番の企画だったせいか、お客の方がなかなか集まらず、ディッシュは開始時刻を 15分ほど遅らせることになる。だがこの会場の位置は最高だった。サン・モリッツ・ホテルの最上階であるため、左側のベランダに出ると、巨大なセントラル・パークが一望のもとに見わたせる。

そろそろ客も集まり始めると、司会者はこう口火を切った――「本日は、ジャンル内文学というものがいかなる自由を与えるか、その点を明らかならしめることになります」

正直なところ、私自身は長い国際 PEN大会の歴史のなかで、いったい何度「SF」に関するパネルが組まれてきたのか、まったく知らない。今、手元にある唯一の資料は前回、つまり東京大会の「報告」のみであるが、それをひっくりかえしてみても、読まれたペーパーの分量からすれば規模としてはニューヨーク大会の倍近くに及びながら、SFに正面きって取り組んだものはゼロ。そういえば、東京大会で初来日を遂げたヴォネガットだが、今大会でもディッシュからパネル参加要請を受けながらそれを断るのにこうコメントしたという――「ああ、サイエンス・フィクションねえ。ぼくも昔、そんなものを書いていたころがあったなあ」

左から:筒井康隆氏、巽先生、ヴォネガット氏@第 47回国際 PEN東京大会 1984
その影響をこうむったのかどうか、司会者は最初に「 SFがいかに主流文学の徒弟と認められるようになったか」と証明するのに、安部公房、マーガレット・アトウッド、J・G・バラード、ブライアン・オールディス、ドリス・レッシング、イタロ・カルヴィーノ、アーシュラ・K・ル=グィン、ジョアンナ・ラスといった人々の名を「夢のパネル招待者」として列挙する。そして今回のパネリストも、そういった SF/主流文学の界面上で選ばれたことが強調され、またパネリスト自身もこうした「夢のパネル招待者」を各々できるだけ挙げていくことが期待として述べられる。

ディッシュのこういう傾向自体は、しかし SF講演集『解放された SF』の中の「 SFの気恥ずかしさ」などを一読した向きにはさほど珍しいものではあるまい。それよりも私がびっくりしたのは、作品の世界と写真の風貌から予想していた暗さ・重さが、彼本人からはまったくうかがえないことだった。その語り口は、どう受けとめても軽妙である。きわめて陽気で機敏なのだ。それは何よりも、今右に紹介したようなイントロからパネリストへのつなぎ方・・・・の巧みさのうちにも、如実にうかがえよう。

一番手はジョン・クロウリー。司会者によって「叙事詩的科学幻想小説の第一人者」と紹介されたこの作家は、第 3作『エンジン・サマー』(もちろん「小春日和インディアン・サマー」のもじり。1977年)が邦訳予定されている。1942年生まれだから ディレイニーと同い年、今年 44歳になる。見るからに若々しいこの作家は、SF少年として出発しながら一時期 SFから離れ、1960年になって再び SFに回帰したという自伝的背景から語り始めた。なぜ SFにもどってきたのか。それは「真に誰も未だかつて書いたことのない小説を構想・執筆することになったから」だという。そして自分自身はいまなお「SFのアウトサイダー」意識を残しているものの、SFを書くことの可能性は何より「忠実な読者層、すなわち毒にも薬にもならぬ人生を耐えがたく思い、ゲットーを構成するのさえいとわぬ人々」にこそ存在しているのであって、「私はこうした SF読者層に心から喜びを感じている」と結ぶ。

レスリー・フィードラー。 1917年生まれだから、この時には 69歳。何度も来日し、邦訳も『終りを待ちながら』(新潮社)などがあり、現在最重要著作『アメリカ小説にみる愛と死』の完訳が待たれているアメリカ文学批評界の重鎮。長くニューヨーク州立大学バッファロー校で教鞭を執るこの人物は、依然 1冊本としての SF論こそないものの、数多くの評論集序文・SF小説アンソロジー編集などの業績により、SF研究の分野ではその名を欠かすことはできない。

「若い頃には、何でも読んだものだ」――このようにフィードラーは始める。「その読書体験の中には、いまなお自慢できるものと少々気恥ずかしいものとがあるが、これは『必読文学』と『選択文学』に分けられる。そして私はいつも『必読文学』よりは『選択文学』としての SFに還ってくるんだ」

このとき、初めてディッシュの真意がわかったような気がした。彼がフィードラーをパネリストに置いたのは、何よりもディッシュ自身の理論を主流文学者サイドから補強させるという戦略に依っている。自然、このパネルは単に「 SFジャンル内の議論」にとどまらない、「 SFの使徒というより批評家として著名なフィードラー」も参加した企画として注目されるわけで、たしかにこれは新聞報道のためには一応の功を奏した(『ワシントン・ポスト』1月 16日号)。

もっとも、文学理論としては構造主義及びそれ以後の展開に大きな危惧を抱いてみせるのがこの老学者の最近であり、彼はもっとヒューマニスティックな部分を大切にしているが、とはいえ、ジャンル定義についてはさすがにある程度凝った発言をしたものである――「私がこれからの余生をつぎこんで行なおうと決心しているのは、必読・規範性・メジャーの名で呼ばれる文学と選択・大衆性・マイナーの名で呼ばれる文学との間の差異を打ち崩すことだ。SFは、大衆文学の形式的再構成によってもはやマイナーではなくなり、メジャーとなった。しかしそれは同時に、SFが再ゲットー化されたという事実にも等しく、SF作家たるもの、この代償は覚悟しなければならない」

だが、一番おかしかったのは、彼による「夢のパネル招待者」に関する以下の言葉だ――「年齢からいうとアジモフやハインラインと大差ないフィリップ・ホセ・ファーマーは、私がわざわざ会いに行った数少ない作家のうちのひとりだが、会ってみて、こいつはアジモフ、ハインライン以上に頭が変じゃないか、と感じたねえ。まあそれが、私のファーマーを評価するゆえんなのだけれど」

サミュエル・ディレイニー
サミュエル・レイ(“チップ”)・ディレイニー。 1942年生まれ、この時 44歳。司会者からは「文学趣味を持つ SF読者の間で最高の評価を得ている、まことにうらやましい作家」と紹介された彼については、もはや多言を要すまい。そしてチップ自身のスピーチもまた、多言を要さない簡潔明瞭なものだった。彼はまず、「作家というのはある意味でエキセントリックな読者である」と切り出し、SF作品においては、たとえば少年時代に読んだアジモフの『ファウンデーション・シリーズ』が「歴史についての物語と同時にひとつの歴史的時代についての物語」としても映り、この二重の視点が SFの中の拮抗しあう力であることに気づいた、という。さらに、「今日アメリカで出版されている新刊の 14パーセントは SFで、これは一ジャンルとしては最高の比率だと思うが」と前置きし、「その中でも秀れた『架空の世界律ポシブル・ワールド』(可能世界)の創り手としていまなおもっとも話してみたいと崇めている『夢のパネル招待者』は、故シオドア・スタージョンとジョアンナ・ラスのふたりだ」と語った。

ジョン・カルヴィン・バチェラー。今回のメンバー中ではたぶん一番なじみがうすいと思われるが、それは本人も「私は SF作家ではない」と宣言するとおり、まさに界面上で活躍する人物であるからだ(『 SFの本』5号小川隆コラムに代表作『南極人民共和国の誕生』のレヴューあり)。しかし、彼に関して何より驚くべきなのは、後述する晩餐会バンクェットで話してみてわかったのだが、いかに自分の名前に忠実に生きているかという、それこそまるでジョークのような事実だった。1948年生まれの 38歳になる独身バチェラー(もっとも彼の名のスペリングは “Bachelor” ではなく“t” の入った “Batchelor”だが………まあ洒落としては立派に通用するだろう。自ら「どうしてなんだか、まだ未婚なんだよねえ」と喋っていたのが、たまらなくおかしい)。加えて、プリンストン大学では歴史を専攻するとともに神学をも修め、長老派カルヴィニズム牧師になる教育さえ受けている。その彼がいったいなぜ 1974年以来小説を書きだしたか、といえば「神の賜物ギフトを授かったため」あくまで「才能タレント」ではなく「賜物ギフト」なのだ、その結果「書くことがきわめて幸福に思えるのだ」――とは、バチェラーの自己要約的な発言であった。

さて、彼はいきなり自身の「夢のパネル招待者」を挙げるところから始めた。それはドストエフスキーとソルジェニーツィンのふたりで、前者に関しては「たとえば『カラマーゾフの兄弟』で顕著な教会国家の話題は確実に未来世界を想定したもの。その点を訊ねてみたい」、後者に関しては「いわゆる私の文学的関心は SFとも共通するアンチ・ユートピアのヴィジョンにあるが、この作家はまさしくその線で未来世界を考察している」と選択の根拠を説明。そして米ソ対立にふれながら「人々が話題にしているのは過去の戦争の清算にすぎないが、私が心底挑戦したいのは、むしろ未来世界を描くことなのだ」と断言。堂々たる体格もさることながら、その朗々たる演説はとりわけ彼の英語がアクセントのない聴きやすいものであることも手伝って、非常に印象的だった。しかも、よくよく考えてみれば、先行する三者はみな今回の大会テーマを避けていたけれど、バチェラーに至って初めて、SFのセッションとしても第 48回国際 PENの一セッションとしても重要な切り口が開かれたわけである。つねに政治的意識を隠さないその作家的資質は、日本作家でいえば笠井潔氏にきわめて近い部分を感じさせる。

トマス・ディッシュ。 1940年生まれ、今年 46歳。先ほどからこれらそうそうたる顔ぶれを挑発し、巧みに語らせてきたこの作家=司会者を支えているのは、生粋のニューヨーカーとしてのセンスだろう。ニューヨークで生まれ、育ち、そしてついにはこの都市を SF的に脱構築するに至った代表作『334』は、同じくニューヨーカーで彼の好敵手でもあるディレイニーの『ダールグレン』と並ぶ都市 SFの傑作としてそびえたつ。

彼の議論は、メイラーによる PENテーマとも関連する「アメリカの国家意識」を「人類の集団的無意識」へずらして考えるところから出発した――「月着陸にせよ宇宙旅行にせよ、それはアメリカ的集団的無意識と無縁ではないが、同時にそうした物事が予言としていつか実現するという集団的信仰こそ、SFをその黄金時代まで児童文学にしてきたファクターに他ならない」。ここで児童文学の視点がもちだされたことは、ちょうど彼の「いさましいチビのトースター」がディズニー映画として製作進行中であることを考えるとほほえましくさえあったが、さてまさにこの点で、ひとつ重大な逆説が生じてくる。ディッシュはディレイニーのヒロイック・ファンタジー・シリーズ最近作『ネヴェリヨンから逃がれて』が世界でも初めてエイズの問題を扱った小説であり、未来というよりは多元世界をその構造としていることに注目する。それなのに、そもそも出版社がこうしたレヴェルでの本作品の偉大さをカバーにさえ刷り込まなかったのはいったいなぜか?「つまり、ここに避けがたい逆説が潜んでいるんだ。SFは本来最も自由なジャンで、どんな話題でも扱えるから重要なのだが、同時にむしろそのあまりにも自由な性格そのもののために矮小なジャンルともみなされてしまう」

これがディスカッションの引き金となった。自作に言及されたディレイニーがすぐに引き継いで「出版社は SFをあくまで 16歳以下の子供向けに売りたいから、エイズなどの話題性にスポットを当てる気はないのだ」とまず説明、そしてディッシュのもうひとつの要点であった「予言文学としての SF」なる通俗的見解を批判する――「およそ SFは予言の概念とは無関係だと思う。SFは想像力の装置として多様な未来のヴィジョンを与えてくれるジャンルで、たとえば洗濯機が SF作品ですでに予言されていた、といったような見方はまったく無意味だろう」

クロウリーの意見は多少異なり「 SFに予言性はたしかにあるのだが、肝心なのは大多数の SF作家の描く未来というのが他ジャンルの作家にとっては描写不能なもので、いわば SFの遊戯場として機能していることじゃないか」

フィードラーにとっては、しかし「 SFはむろん未来を予言する」のだし、そればかりか「同時に未来を創造する」、より正確に言えば「 SFとは、それによって未来を捉えられるような認識装置を提供する」さらにジャンルとしてのそれは「イデオロギー的というよりは神話学的に、我々を真理へ導いてくれるもの」だという。

バチェラーはここで持ち前のリアリスティックな傾向をさらに発揮し、レーガン=モンデールの第 2回ディベートに関連して「レーガン大統領の SDI(戦略防衛構想 [ Strategic Defense Initiative]、通称「スターウォーズ計画」)に関するジェスチャーは、適否はともあれ、明らかに自らの未来観を示したものだ。彼はその意味で私と同じことをやったわけで、我々の思弁というのが代替世界を実現するためになされるとするなら、レーガンはまさしく SF的主張を試みたことになる」と発言。

もっとも、ディッシュからすれば「未来という神話は SFに特有の地方病みたいなもの」にすぎず「 SFに限界があるのは、SFの実践者に限界があるため」ということになる。彼はむしろ SFを「福音文学」とみるが、この点やはり SFを「世俗的聖書セキュラースクリプチャー(ノースロップ・フライ)」とみるフィードラーと一致する。だが、これは畢竟するところ SFに限定付の受容枠を設けてしまう。誰よりもディッシュ自身がその点を詳らかにした――「 SFにかつて読者というものがいたことはない。SFには、その大半が若い白人男性から成る帰依者の集団がいるだけだ」

これはもちろん、SFを明確に「階層文学クラス・リテラチャー」と処理してしまう一種逆差別・・・的な観点で、冒頭の彼自身による提言「主流文学と SFとの差異解体」からは微妙に逸脱する(としかみえない)意見である。したがって、会場フロアも黙ってはいない。ある黒人参加者は「アミリ・バラカ、イシュメル・リードらアフロ・アメリカ作家の SF性」を問い、ディッシュは「第三世界の SFはぜひアメリカ出版界に持ってきていただきたい。この国の読者層は他国の(未来)のドラマに深い興味を持っているから、広く歓迎されるはずである」とかわした。フィードラーも同時に「たとえば南米作家の魔術的リアリズムには、アメリカ作家からは見失われてしまった物語性が依然根強く残存している」事実を高く評価する。

だが、私が一番驚いたのは「イストヴァン・チチェリイ=ローナイ」と名乗る老紳士が歩み出て、ポーランドを代表する SF作家で代表作『ソラリスの陽のもとに』の映画化でも知られるスタニスワフ・レムについてはどう思うかと、パネリスト全員に訊ねたことだ。レム・マニアのかたなら御記憶かもしれないが、チチェリイ=ローナイ・ジュニアといえば現在若手レム研究の第一人者として(「メタファンタジア」の共同英訳者でもある。『 SFの本』5号拙重訳・解説参照)名をなしており、私自身も昨年 1985年 12月のシカゴでのMLA=近現代語学文学協会モダン・ランゲージ・アソシエーション大会で顔を合わせたばかり( SFM  86年 4月号拙稿「アメリカ SFグラフィティ」参照)。果たして PENでのチチェリイ=ローナイ氏はレム研究家イストヴァン・チチェリイ=ローナイ・シニアであり、名刺には「博士」の称号とともにワシントン・D・Cの「オクシデンタル出版」経営者としての肩書きが刷り込まれていた。彼の代でアメリカにやってきたハンガリー移民ということで、その英語にもアクセントが目立つ。そういえばチチェリイ=ローナイ・ジュニア氏の方はネイティヴとしか思えない流暢な英語を操っていたのを思い出し、訊ねてみたら「息子は家ではハンガリー語だけしか喋りません。でも、英語ともども、同じくらいちゃんと喋りますよ」とのこと。

彼の質問を受けたのはディレイニーだったが、その答えは「最近のレムは SFというより寓話フェーブルの方向に走っている」という消極的なもので、ディッシュも「レムに言わせると、重要な SF作家はウェルズ、ステープルドン、それにレム自身しかいないそうだからね」と苦笑いをするのみ。あとでチチェリイ=ローナイ氏と話したとき「どうして私の質問にみんなきちんと答えてくれなかったんだろう」と嘆いていたが、理由は大体推察できる。1973年のこと、レムはアメリカ SF作家協会( SFWA)名誉会員への推薦を受けていたが、その後、彼がアメリカ SFへの激越な批判を発表したがために SFWA入会そのものが取り消しになったスキャンダルが大論争を引き起こしているからだ。したがって、この通称「レム事件」が案外国際 PEN大会にまで尾を引いているのかもしれません、としか、私には返答できなかった。

とはいえ、実はレムについてはもうひとり中年婦人が「『ソラリス』における男性優位・女性抑圧の問題、すなわちジェンダーの問題」をパネリストに訊ねかけ、これにフィードラーが「たしかに SFの始祖がメアリ・シェリーだったことを考えると、フェミニズムのテーマはきわめて大切な視点だと思う」とマトモ・・・な返答をしている。これは私もまったく同感。『ソラリス』がレムのうちではほぼ唯一「女性」を扱った作品で、それも「女性の抑圧」を描いているのは明らかなのに、何よりも「女性の抑圧」という問題自体が抑圧されてきたように感じるからである(『ユリイカ』1986年 1月号レム特集号拙論参照)。

このような質問の背景として、ディッシュが席上露呈した、いかにも WASP的なメール・ショーヴィニズムへの反応というのがあったことは言うまでもなく、彼はのちに「せっかく『キャンプ収容』のような作品があるというのにどうして SFはこれほど保守的で帝国主義的なのか?」と皮肉られもするのだが、実際に「 SF」パネルで抑圧された最大のものは、先にも示唆した今回の PENテーマではなかったろうか。「 SFと政治的ファッションの関わり」について投げかけられた問いに対し、ディレイニーは「 SFと政治の関係はこれまで何度となく、あきあきするほど訊ねられ、そしてそれへ対処するにはどうしてもこの作品は資本主義的、この作品は共産主義的、といったあまりに素朴シンプルな還元主義へ陥らざるをえないんだ」と断ったうえ、「私自身は、作中の社会・経済的世界をつくるのに、あからさまな資本主義ないし共産主義的思想をもちこんで多元未来とするような、そんな SFを書くのに適した作家ではない」と明言した。その断固たる物腰には、私自身これまで何度か彼に会いながら、ついぞ見たことのない迫力があった。

かようなディレイニーの立場が、しかしバチェラーを例外としてこのパネル全体の基調になっていたのは事実である。業を煮やした参加者の中には、SFに「逃避文学」の烙印を押そうとした人物もいたが、それもまた「これまで何度となく、あきあきするほど繰り返されてきた、あまりに単純明快な決り文句(クリシェ」でしかない。

ここで、そのあたりの事情を熟知したフィードラーが、このようにジョークの一匙を投げ入れる――

私のお気に入りの C・S・ルイスから引用しておみせしよう――「逃避という行為がとがめられるべき人間など、果たして囚人以外に存在するだろうか?」

左から:フィードラー、ディッシュ、クロウリー、ディレイニー

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パネルのあとには、チップ・ディレイニーとともに付近のデリカテッセン・レストランで昼食。開口一番「 11月以来、学校では何をしていたかね?」と訊ねるこの人物のこういう気やすい側面について、いったいなぜこれまでマイケル・ペプロウとロバート・ブラヴァードによる伝記( G・K・ホール社)以外紹介が進んでいないのだろうといぶかしんでいたが、明年にはこのパネルにも来てカメラマンを務めていたデイヴィッド・ハートウェル(アーバー・ハウス社)の編集で『自伝』が公にされるらしい。

チキン・グラタンをつつき、コーヒーをすすりながら、私たちはさまざまな話をした。クロウリーは目下チップが最高に評価する若手のひとりであること、現在チップが仕上げを急いでいるのは、一昨年久々に出したハードコア SF『ポケットには砂粒のごとき星々が』の後篇『肉体と都市の栄光と悲惨』であること(〆切はすでに昨年 12月だったようだ)。私自身が話したのは、先学期ヘンリー・ゲイツ教授による「アメリカ黒人文学」のクラスのためにディレイニー論(『アインシュタイン交点』論)を書いたこと、日本におけるディレイニーアンとして私はいわば第三人者であること(先行者はもちろん伊藤典夫氏と米村秀雄氏である)。

しかし、まさに奇遇としか言えぬ私たちの「交点インターセクション」は、前掲ゲイツ教授がチップをコーネル大学人文科学研究所(ジョナサン・カラー所長)訪問教授として招聘し、彼も 1986年秋学期における就任について同意した、という話だった。「カラー氏からも招聘状をもらったよ」と微笑む彼は、秋学期のクラスではジョン・ヴァーリィの短篇とウィリアム・ギブスンの長篇『ニューロマンサー』『カウント・ゼロ』を精読するという。これは、ある意味ではサイバーパンク SFの先駆者自身による初のサイバーパンク文体論になるはずで、今から楽しみである(筆者注・授業の詳細は拙著『サイバーパンク・アメリカ』[勁草書房、1988年]参照)。

左から:ディレイニー氏、荒巻義雄氏、巽先生
アムステルダム・アヴェニューにあるディレイニー邸にて( 1986年 4月)

この晩のレセプションは、何とセントラル・パーク東端に位置するメトロポリタン美術館で行われた。実を言うと、翌日の晩にも『マザー・ジョンズ』なる原理運動系の雑誌の主催で、カート・ヴォネガットやアリス・ウォーカー、E・L・ドクトロウらをゲストとするパーティがグリニッジ・ヴィレッジのディスコ「キャット・クラブ」で挙行されたが、まあこれはありそうな企画だし、さして驚くには足りない。驚くべきは、メトロポリタン美術館で 6時半から始まったこのレセプションというのが、目下同館の売り物になっている、館内に再建築されたエジプト・デンドゥーア神殿をそっくりその会場としていたことである。これまでにも同館自体が何らかのパーティの会場として使われることは「ベル・エポック展」「サンローラン展」他のファッション・ショーの機会に往々にしてあったようだが、ともあれ今回の国際 PEN実行委員会はおよそニューヨーク市内で考えうる最も華麗なパーティを目論んだものと思われる。

レセプション@メトロポリタン美術館
レセプション@メトロポリタン美術館、エジプト・デンドゥーア神殿
スーザン・ソンタグ
ジョン・アーヴィング
ジョイス・キャロル・オーツ
カート・ヴォネガット

来場者たちも豪華をきわめた。スーザン・ソンタグ、ジョン・アーヴィング、ジョイス・キャロル・オーツ、ピーター・ストラウブ、サルマン・ラシュディ………私自身は、チップやレズリー・フィードラー夫妻、それに名編集者デイヴィッド・ハートウェルと彼のクラリオン・ワークショップでの教え子にあたるというキャスリーン・クレイマー嬢(コロンビア大学学生兼恐怖小説編集者ホラーエディター)と談笑していたのだが、ムードに圧倒されてしまっていると、やがてハートウェルが「夕食まだなら、一緒に出ないか。42丁目においしい店があるんだ。ぼくがオゴるよ」

デイヴィッド・ハートウェル
結局キャスリーンと 3人、彼の車でそのレストラン「ウェスト・バンク・カフェ」に直行。ステーキとワインを注文、SF話に花が咲く。彼の著書『驚異の時代』は SF編集サイドからの尊重すべき本格 SF論と呼べるが( SFM 1985年 2月号小川コラム参照)、その中で「 SF教育法試案」として文献リストを付し実際には SFRA( SF研究協会)の会員でもある彼が、一方で SFアカデミズム批判もしているのはどういうことなのか。一読して思った印象を訊ねてみたら、彼はこう語ってくれた――「あの本を書くにあたり、ぼくは非常な注意を払っている。ひとつ言っておかなければならないのは、あれはあくまで平均的な SF作品・・・・・・・・について書かれたものにすぎない、ということだ。最高の SF作品・・・・・・・についての本は今準備しているところだよ」

一言一語自信をもって言葉を選んでいくハートウェルは、また最近情報誌『ローカス』昨年  1985年 11月号で喧伝された名うてのダンディーでもある。彼もまた生粋のニューヨーカーであり、しかもコロンビア大学大学院では比較中世文学を学んだというから筋金入りだ。文学博士号を持ちながら、堂々と「 12歳・・・のころから SF編集者になりたいと思っていた」――この言葉は『驚異の時代』冒頭に掲げられた「 SFの黄金時代は 12歳」と呼応する!――と言明するハートウェル。限りなくイキな SF好中年と呼べるだろうか。

話はキャスリーンの興味からアメリカ文学における建築のメタファー、といった少々文学的にすぎる話題にも流れたが、結局ハートウェルが今年から続々と編集してゆく予定のサイバーパンク系 SF(ギブスン第 2作の前掲『カウント・ゼロ』及び彼の短編集、それからブルース・スターリング新作『ネットの中の島々』及び彼を編集筆頭とするサイバー・パンク・アンソロジー『ミラーシェード』)について一番盛りあがる。中でも、スターリング『スキズマトリックス』( 1985年)の中に何人かの SF作家のエコーをみようとする私に対し、彼は一貫して「ヴァン=ヴォートの影響」だけを強調したのが興味深い。

カナダの SF作家 A ・ E・ヴァン=ヴォート(日本では長くヴァン=ヴォクトの表記で親しまれる)といえば、リドリー・スコット監督、ダン・オバノン脚本の『エイリアン』(  1979年)のヒントになったと言われる名作『宇宙船ビーグル号』( 1950年)の著者であり、驚くべきアイデアの洪水で知られるが、とりわけ彼が生き生きと描き出した宇宙怪獣クァールに関しては同映画に直接的影響を与えているのが一目瞭然のため、作家自身が 20世紀フォックスを剽窃の疑いで訴え、示談に終わったという経緯がある。そしてスターリングもまた、ヴァン=ヴォートに勝るとも劣らぬ程に奇想天外なアイデアに溢れる作家だった。

「スターリングはヴァン=ヴォートさ、ヴァン=ヴォート以外の何物でもない」と彼は言う。「しかし大切なのはね、ヴァン=ヴォート自身はまるで売れない作家だったのに、いったいどうしてスターリングを含めた多くの後続作家たちがヴァン=ヴォートの模倣をしようとしたがったのか、という問題だよ。これがあの作家の秘密だ」。そう、それはそしてアメリカ SF自体の秘密かもしれない。

ハートウェルは別れ際、彼自身も関わる来たる 3月のニューヨーク州 SF大会ルーナコン(ニューヨーク州タリータウン市)には、宿に自宅を提供するからぜひ参加しろ、と言ってくれた。ワシントン・アーヴィングの傑作短篇「スリーピー・ホロウの伝説」の舞台ではないか。だがそれはまた、別の物語になる。

左から:ピーター・へック、ハートウェル@ルーナコン
左から:スーザン・パルウィック、キャスリーン・クレイマー

マリリン・ハッカー
最終日。1月 17日のさよなら晩餐会バンクェットは、サン・モリッツ・ホテルのすべての大会議場を使って行われた。私はたまたまロビー階の広間を割り当てられ、トム・ディッシュ、ジョン・クロウリー、それにノートン社の編集者キャスリーン・アンダースン嬢とテーブルをともにするが、びっくりしたのは、あのチップ・ディレイニー元夫人で現代アメリカの代表的詩人でもあるマリリン・ハッカーもまた同席していたことだ。ディナーが半分ほど進んだころ、ジョン・バチェラーもスカイ・ガーデンから下りて同じテーブルにやってきた――「 31階は絶好の夜景がみられるけれど、メンツがつまらない連中でねえ。ワインはいっぱい余ってたからそれだけくすねてきてもよかったな」。パネルでは一番ラディカルかつ 今回の国際 PEN大会の流れに沿った発言をしていたバチェラーだが、その豪快な人の良さは特筆するに足る。聞けば、1988年脱稿予定の新作は『ソ連月面着陸の真相』といい、そのためロシア語も勉強して文献を集め、訪ソも計画しているらしい。また、こうも言っていた――「オレの昔のガール・フレンドは日本人だった。だから日本にもぜひ行きたいと思っている」

ディナーが終わる。ひとり、またひとりとクロークへ歩き出す参加者たち。私はバチェラーの言っていた「 31階の夜景」が今無性に気になった。そそくさとエレベーターのボタンを押す――

結局、第 48回国際 PENの一週間が残したものは、シュルツ国際長官招聘にまつわるもろもろの論争・ケンカだけだったのだろうか。たしかに、ソンタグのような才女・・は途中でその陥穽に気づき、しきりに議論を政治から文学へもどすよう、呼びかけていた。もともとアメリカ政府から援助金も受けているわけであるし、さらにヴォネガットの物言いを借りれば「我が国の民主主義的選挙の結果であり、投票者たる我々が自らの責任を問い直すべき時」ということになり、ことさらにシュルツ・ショックにかかずらう方が不毛に終わるからである(『タイム』1月 27日号)。しかし、果たして私たちは週の後半だけでも「文学」を見ることができたろうか。「 SF」を見ることができたろうか。少なくとも大半の人々にとっては、「文学」は「政治と作家的憤懣」なる見出しのうちに、「 SF」は「自らのジャンルを弁護する文学的亡命者たち」なる見出しのうちに、それぞれ巻き込まれてしまった主題だろう。その点におけるかぎり、ノーマン・メイラーは確実にひとつのダイナミックな「大渦巻メールシュトレエム」をつくりだした。それなら、さして私たちはいま、その「大渦巻ペン・コングレス」の週末局面・・・・に一匙のジョークを投げ入れられるだろうか。

――エレベーターが 31階に到着する。私はベランダに出た。つい一昨日までは極寒だったニューヨーク市だが、今夜あたりはそれほど冷えていない。アップタウンを背景に、左右にはさまざまの高層ビルが各々のイルミネーションを誇り、その間にひとつの広い空間が黒々と、まるでブラック・ホールのようにぽっかり横たわっていた。

それは、光の大渦巻のなかにまさしく呑み込まれんとしている闇か、さもなくば光をまさしく呑み込まんとしている闇の大渦巻か――いずれにせよ、この壮大なるセントラル・パークこそ、今回見ることのできた唯ひとつの風景と呼べるかもしれない。

1986年 1月 26日

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