#4 Toshio Yagi


成城大学名誉教授で日本ポー学会顧問を務められた八木敏雄先生。ご著書『マニエリスムのアメリカ』の出版を記念して、2012年 1月 21日「八木敏雄先生の新著を言祝ぐ新春の会」が国際文化会館で開催され、八木先生と親交の篤い多くの大学・学会関係者の方々が集まりました。その一ヶ月後、惜しくも八木先生はご逝去されました。今回の Panic Literati では、八木先生のご業績を振り返りながら、巽先生と田ノ口正悟さん(本塾大学院在籍/メルヴィル研究)による追悼文を掲載いたします。



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CONTENTS

写真:八木敏雄先生の新著を言祝ぐ新春の会

序文「ある学界人の遺産 ——八木敏雄氏を悼む」
巽孝之 (慶應義塾大学教授)

追悼「作家は死に、作品は残る」
田ノ口正悟(慶應義塾大学大学院修士課程2年)

★特別付記★ ( 2018年 3月 1日)
故八木敏雄先生蔵書整理


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写真:八木敏雄先生の新著を言祝ぐ新春の会
日時:2012年 1月 21日(土) 18:00-21:00
場所:国際文化会館 岩崎小彌太記念ホール
発起人:鴻巣友季子(代表)、高山宏、巽孝之、宇沢美子、折島正司
難波雅紀、舌津智之、大串尚代









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序文「ある学界人の遺産 ——八木敏雄氏を悼む」
巽孝之 (慶應義塾大学教授)

名のみ知る八木敏雄氏を初めて目撃したのは、忘れもしないわたしが初めて日本アメリカ文学会東京支部月例会に足を運んだとき、すなわち 1979年 春のことである。このころ、大学院修士課程二年になっていたわたしは、いささか焦っていた。思うように修論執筆が進まず、これは学会というところに参加してみないことにはブレークスルーが得られないのではないかという不安で一杯だったのである。折も折、初参加の東京支部月例会は、すでにして我が国におけるエドガー・アラン・ポー研究の権威であり、稀代の名文家である八木氏が幹事のひとりとして切り回していたのは幸運だった。しかし、個人的に親しく言葉を交わせるようになるにはいささかの、決して短くはない時間が必要であり、コーネル大学留学から帰国後、 1987年 4月以降のことと記憶する。

というのも、まさに初対面を遂げた 1979年に講談社文庫で『ポオの SF』という翻訳アンソロジーをも刊行されていた八木氏は、 1987年 5月 24日(日)に中央大学で開かれた日本英文学会第 59回大会で文字どおり「 SF——その歴史と詩学と現状」なるタイトルのシンポジウムの司会を担当されることとなったため、留学中に 1980年代の 新しい SF、すなわちサイバーパンク運動を日本に初紹介したわたしにもパネリストを務めるよう要請するエアメールが届いたのだった。ほかのメンバーには折島正司氏、『 SFマガジン』編集長・今岡清氏が並ぶという陣容で、これが日本英文学会シンポジウムへの初参加となるわたしは大いに緊張したものである。

以後、今日に至るまで、八木氏と同席したシンポジウムや共同研究、さらに酒席のたぐいは枚挙にいとまがない。しかも 2007年には四半世紀ほどの懸案であった日本ポー学会がとうとう設立され、八木氏が初代会長、わたしが初代副会長という役割分担になり、 2009年のポー生誕 200周年記念にさいしては 5月に共編著『エドガー・アラン・ポーの世紀』(研究社)を出し、 9月に三田キャンパスにて記念大会を開くという運びになったから、学術的にも学会的にも意見交換する機会はますます増えた。

折も折、 2011年暮れには八木敏雄氏の単著としては第五作にあたる『マニエリスムのアメリカ』(南雲堂)が出るというので、じっさいに成城大学で薫陶を受けた人気翻訳家・鴻巣友季子氏を筆頭に、日本ポー学会のみならず日本アメリカ文学会全体をも含む有志を発起人とし、年明け 1月には同書刊行を言祝ぐ出版記念会を企画した次第である。

もちろん、ことが学恩ということならば、本来は八木氏が長く教鞭を執った成城大学関係の方々を中心に出版記念会が企画されるのが筋であったろう。しかし、当初のわたしとの出会いが学会であったことは偶然ではない。八木氏はよく「自分はどこの学閥にも属していない」と発言していたが、それは逆に言えば、八木氏の影響力がどこの学閥にも囚われることなく、広く学界全体に及んでいたことを意味する。八木氏の学恩を感じていたのは成城大学の教え子ばかりではなく、広く学界全体の同僚であり後進であった。しかもそれは、日本国内に囚われない。八木氏の代表論文「『白鯨』モザイク」英語版の衝撃は太平洋の向こうにまで及び、現代アメリカを代表するメルヴィル学者ロバート・ウォレスやサミュエル・オッターまでが心服することになったいきさつは、 9月に刊行される日本ポー学会正会誌『ポー研究』 4号に、彼らの切々たる追悼文が掲載されることからも、わかるとおりだ。

したがって、われわれはごく自然に八木氏の出版記念会を企画し、 2012年 1月 21日夕方の国際文化会館にはごく自然に大学関係者や学会関係者、若い大学院生が学部生までが集まり、そしてごく自然に日本アメリカ文学会としては初めてではないかと思われる集合写真を撮影した。たまたまわたしや大串尚代氏をはじめ慶應義塾大学関係者が多くスタッフに加わったものの、わたしも含め、直接八木氏の授業に出たことのある者はおらず、あくまで学界を通じて学恩を感じるがゆえに、たまたま集ったにすぎない。かくしてこのパーティでは、ただ八木氏を尊敬するというただそれだけの気持ちから多くの学究の徒が寄り集い、酒を酌み交わし、談笑するばかりの空間が拓けていた。最大の証左は、文芸評論家の小谷真理氏が八木氏の半生を生き生きと綴ったヴィデオ映像を編集し、それがパーティの間じゅう流れて、出席者の眼を楽しませていたことである。八木敏雄という人格でなければ、これほどに楽しく有意義な会が開催できたかどうかは、保証の限りではない。

パーティ全体を通して、八木氏は終始ごきげんであったし、名司会・宇沢美子氏の誘導によるそうそうたる方々————渡辺利雄、折島正司、高山宏、原信雄、平石貴樹の諸氏————のスピーチも面白くて長過ぎない(短いとはいわない)ものが多かった。八木氏はパーティ一週間前の会場下見にも、パーティ終了後の二次会にも参加され、世代と性別、国籍を問わぬ参加者たちとの交流を心から楽しんでおられる風情であった。

ふりかえってみると、かつて 2001年 10月 18日(木)には、成城大学ご退職記念の『アメリカ!』(研究社、金子靖氏編集)刊行にさいし、八木氏自身の肝煎りにより、ご自宅の近く、新百合ケ丘駅前の中華料理店「赤坂離宮」にて、わたしや折島氏を含む執筆者のみの小さな出版記念会が行なわれている。これは、八木氏自身が執筆者全員を招待しての「感謝の会」であった。

以来十年余。

時代は変わる。

2012年 1月 21日(土)、こんどは日本におけるアメリカ文学研究の学界全体の側から八木氏の偉業を讃え学恩に報いようとする、もうひとつの「感謝の会」を持つことができたことを、わたしは心からうれしく思う。その約一ヶ月後、八木氏は急逝したが、その学恩は今後も決して忘れられることはあるまい。われわれはむしろ、いまだからこそ八木氏の遺した多くの学究的遺産を介し、これまで以上に深く八木氏と対話する機会を得たのである。

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追悼「作家は死に、作品は残る」
田ノ口正悟(慶應義塾大学大学院修士課程2年)

2月末、八木敏雄先生のご逝去を耳にした。その訃報を耳にした時の衝撃は、わたしにとって大きなものであった。というのも、その訃報は、アメリカ文学研究の偉大な巨匠が失われてしまったことを意味するように思えたからだ。

わたしは、この衝撃的な知らせの一か月ほど前に、八木先生にお会いしていた。1月21日に六本木の国際文化会館において催された「八木敏雄先生の新著を言祝ぐ新春の会」でのことだった。『マニエリスムのアメリカ』の出版を祝うこの会は、非常に盛大な催しであった。慶應義塾大学教授の宇沢美子先生が司会を務められたこのパーティは、翻訳家兼エッセイストである鴻巣友季子先生が、成城大学において教鞭を取られていた八木先生の思い出を学生の目から振り返りつつ、開会の辞を述べることで始まった。東京大学名誉教授である渡辺利雄先生が、数十年来の親交を振り返り温かな友情に彩られた話をする一方で、明治大学教授の高山宏先生は、八木先生との刺激的な知的交流を語りながら『マニエリスムのアメリカ』がどれほどの学術的重要性を持っているのかを述べた。慶應義塾大学教授の巽孝之先生は、その記念パーティがどのようにして開催されるに至ったのかに触れながら、八木先生の本の出版にお祝いの言葉を贈った。

歓談を交えつつ、東京大学大学院教授である平石貴樹先生や青山学院大学教授の折島正司先生からのお言葉など順調に会が進み、八木先生のご挨拶の場面が来た。燕尾服に身を包み、赤い蝶ネクタイを締めた先生のお姿は非常に凛々しく、わたしはその堂々たる風格に見入ったのを覚えている。いかにして『マニエリスムのアメリカ』が出来上がったのかを静かに述べる先生の態度から、わたしは文学に対する深い情熱を感じた。わたしはその静かな情熱の中に、70歳を過ぎて、ハーマン・メルヴィルによる長大で難解な『白鯨』を翻訳し、さらに、エドガー・アラン・ポーの短編集や評論集を次々と編纂、翻訳した八木先生の精力的な学術的活動の根源を見出した。81歳を過ぎてなお決して衰えることのない文学への想いに触発されたわたしは、自身の研究の動機を見直すことができたのだった。

八木先生の情熱に触発されたわたしは、その一か月後に先生の訃報を耳にするとは思っていなかったため、その知らせは衝撃だった。アメリカ文学研究の世界の中に先生はもういないのだと考えると、大きな喪失感を感じた。訃報のお知らせを聞いた日の夜、その喪失感を和らげようと、先生の『マニエリスムのアメリカ』を手に取った。先生の研究の集大成ともいうべきこの本は、19世紀中葉のアメリカ文学黄金期であるアメリカン・ルネサンスの作家たちを、アメリカン・マニエリスムという新たな定義で読みなおそうとする目的で書かれた。そのためその中には、エドガー・アラン・ポー、ナサニエル・ホーソーン、それにハーマン・メルヴィルといった作家達に対する数多くの、そして興味深い論考が収められている。しかし、『マニエリスムのアメリカ』はそれだけに留まらない。アメリカ植民地時代初期のジョン・ウィンスロップや18世紀のチャールズ・ブロックデン・ブラウンといった作家から、世紀転換期を代表するマーク・トウェインやアメリカのモダニズムの頂点に位置するウィリアム・フォークナーへの刺激的な論考も収められることで、八木先生の批評的想像力がアメリカ文学史を幅広く再構築していることが読み取れる。

しかし、悲しい知らせを聞いた日、八木先生の本を手にして読んでいた時に、ふとわたしの目に入って来たのは、アメリカ文学に関する論考ではなく、「消えなましものを」と題された坂口安吾論であった。先生の想像のチャンネルがアメリカのみでなく、日本にも開いていることに感心しつつ、論考を読み進めていくうちに、「作家は死に、作品は残る」という言葉がわたしの目に留まった。この言葉を目にした時、不思議と先生が亡くなられたことへの悲しみと喪失感が少しだけ和らいだ気がした。なぜなら、批評家が亡くなったとしても、その人の批評は残るのだから。わたしは研究という日常において、八木先生の批評家としての業績を意識しないでいることはできない。八木先生が残した研究の業績は、同じ時代を研究するわたしを支えてくれているのである。同じことは、わたしのみでなく、他のアメリカ文学研究者の方々にも言えるだろう。

八木先生が亡くなったことは、アメリカ文学研究という風景から先生がいなくなってしまわれたことを意味するのだろうか。答えは否である。先生の批評が描き出した壮大な学術的風景は、わたしのような研究者を志す人間の批評の水脈の中に確実に映り込み、今なお、そしてこれからもその中で滔々と流れ続けるのだから。

最後になるが、八木敏雄先生のご冥福を心よりお祈りする。

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★特別付記★
故八木敏雄先生蔵書整理/ 2018年 3月 1日(木)

【参加者】佐藤憲一先生(東京理科大学)、田ノ口正悟先生(慶應義塾大学・非)、内田裕さん(中央大学・院)、小泉由美子さん(慶應義塾大学・院)

【作業手順】1)蔵書書誌データを撮影( 3月 1日作業)、2)データを基に書誌目録作成( 5月初旬)、3)受け入れ先(目下探索中)に移送予定

【記】3月1日(木)の当日は、八木純子さまのご厚意にてあたたくご歓待頂きました。八木先生の蔵書整理作業にあたりましては、先生のご興味の範囲が、アメリカ文学のみならず、日本文学・美術・悪魔学・中国語など、極めて広大なものであったことに、一同、あらためて圧倒されました。論文などは極めて几帳面に整理・保存されており、すでに出版された先生の訳書ハーマン・メルヴィル『白鯨』およびナサニエル・ホーソーン『緋文字』はすぐ手に取れる机上に置かれ、そこにかなり多くの書き込みがされていました。出版後も翻訳の磨き上げを続けられていたことが推測でき、大きな感銘を受けた次第です。

















おまけ
巽先生の博士論文を本棚に発見しました。

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<八木敏雄(やぎ・としお)>

1930年:福井県に生まれ、中国天津で育つ
1946年:引き揚げ
1953年:東京外国語大学英米語学科卒業
1969年~:成城大学文芸学部英文科勤務
2001年:停年退職、名誉教授
2012年:『マニエリスムのアメリカ』刊行
2012年2月22日:心筋梗塞で死去、81歳歿


【関連書籍】
ハーマン・メルヴィル/八木敏雄訳『白鯨 上』(岩波書店、2004年)


ハーマン・メルヴィル/八木敏雄訳『白鯨 中』(岩波書店、2004年)


ハーマン・メルヴィル/八木敏雄訳『白鯨 下』(岩波書店、2004年)


エドガー・アラン・ポー/八木敏雄訳『ユリイカ』(岩波書店、2008年)


ナサニエル・ホーソーン/八木敏雄訳『緋文字』(岩波書店、1992年)


八木敏雄『破壊と創造―エドガー・アラン・ポオ論』(南雲堂、1968年)

八木敏雄『ポー―グロテスクとアラベスク』(冬樹社、1978年)


八木敏雄『「白鯨」解体』(研究社、1986年)


八木敏雄『アメリカン・ゴシックの水脈』 (研究社、1992年)


八木敏雄、巽孝之編『エドガー・アラン・ポーの世紀 生誕 200周年記念必携』 (研究社、2009年)