#13 Takahiko Mukoyama

Panic Literati #13は、パニカメ初代編集長で作家の向山貴彦さん追悼特集です。

巽ゼミの年刊誌『パニックアメリカーナ』(通称パニカメ)は向山さんを中心に 1996年 12月創刊、2004年には朝日新聞で紹介され、今年で 22号を迎えました。作家としては、『三田文学』の「学生小説セレクション」を経て、『童話物語』でデビュー。その後、『ほたるの群れ』を連載。昨年 2017年は、ビッグファットキャットシリーズ最新作『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の大百科事典』(スタジオ・エトセトラ編)を刊行されるほか、父向山義彦氏の『ちゅうちゃん』を監修、『三田文学』最新号( 2018年冬季号)には随筆「西脇順三郎とちゅうちゃん」を寄せられました。

1970年 8月 6日テキサス州ウェーコ生まれ、 2018年 3月 5日東京都武蔵境にて没。享年 47。

本追悼特集では、巽先生、小谷先生、大串先生、山口氏、和佐田氏、そして OBOG・現役生による追悼文を掲載。加えて、デビュー作『童話物語』に収録された巽先生による解説(単行本版&文庫版)を特別掲載いたします!

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CONTENTS

<追悼>


夏合宿にて 
山口恭司


恥ずかしがり屋の魔法使いがくれたもの 
永田範子(旧姓・小林)

向山さんのこと
奥田詠二


<特別掲載>
解説『童話物語』 巽孝之

写真

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巽孝之

向山貴彦君( 1970年 8月 6日 – 2018年 3月 5日)と初めて会ったのは、 1995年、わたしが慶應義塾大学文学部英米文学専攻の二年生向けに担当していた原典講読の授業だった。わたしが 40歳、向山君が 25歳になる年の春のことである。

本塾の英米文学専攻は、ふつう文学部のなかでも「エグい専攻」と言われているため、ふつうの二年生ならば、いよいよ専門課程でビシバシしごかれるんじゃないかと緊張感でいっぱいのはずだが、その原典講読の中でただひとり、ちょっとヘンな学生がいた。まったく緊張することなく、無根拠な自信に満ち溢れ、えらく積極的に授業の資料やハンドアウトを高性能 DTPを駆使して配布するのだ。しかも、ふつうの学生であれば、英米文学の古典を読みながら、作家の背景とか作品の概要とかを生真面目に解説するところから発表するものだが、この学生は何と、ひとつの古典的文学作品を発表するのに「現代的に解釈したらどうなるか、ぼくなりに小説にしてみました」と断り、その小説をハンドアウトとして配布したのだから、度肝を抜かれた。勉強のよくできる学生、教師の指導をしっかり守る学生はいくらでもいるが、授業を素材にして新たな作品を創造してしまう学生は、そうめったにいるものではない。

この一風変わった学生が向山貴彦君だった。しかも彼は、まだ二年生というのに同級生と意思統一したうえで、わたしにこう声をかけてきた。「先生、飲みに行きましょう!」

そのゆえんは、わたし自身が授業中、イギリスの先端的文化批評家ハリエット・ホーキンズの理論にもとづき、「マイクル・クライトン/スティーブン・スピルバーグの『ジュラシック・パーク』はミルトンの『失楽園』の変奏のひとつだ」と口走ったことがあり、これが彼をいたく刺激し「何てヘンな先生なんだ」と思わせたことにあるらしい。つまり、こっちも「何てヘンな学生だ」と思っていたら、あっちも「何てヘンな先生なんだ」と思っていたというわけである。そこで、ひょっとしたらまだ未成年がいるかもしれないことが危ぶまれる二年生のクラスで、向山君の音頭のもとに、なんとも初々しい打ち上げが実現する。

のちに向山君自身はまったくの下戸であるのを知るのだが、この時一緒に三田の居酒屋へ同行したメンバーには、いまは静岡で立派な演劇プロデューサーになっている成島洋子君、そして現在、日本女子大学准教授になっている馬場聡君も含まれていた。たいへん楽しいひとときだった。ところがこの晩の帰り道、しこたま酔っ払ったせいか、シャンボール三田に帰宅途上のわたしはうっかり坂で転んで右手のひらを擦りむいてしまい、翌日のアメリカ文学史には包帯を巻いて登壇したのだが、このことが、向山君にはえらく印象深かったらしい。以後は毎週のように、長電話がかかってくるようになった。ゼミの OBOG会でスピーチしてもらうと、二回に一回はこのときの思い出が登場する。しかも、そのつど内容がアレンジされていて、「ぼくたちと飲んだ先生は帰り道で骨折した」「翌日先生は三角巾に腕を吊って現れた」というようなヴァージョンも含まれていた。当時から、彼は想像力豊かな作家だったのである。

 1996年、進級した向山君はわたしのアメリカ文学ゼミの 7期生となり、卒論はスティーヴン・キングに決めていて、一度はまっとうな作家作品をめぐる発表をやったのだが、それ以降は、毎回異なるトピックで発表するようになった。ふつうの学生であれば、ひとりのアメリカ作家を選んで作品をいくつか決め、テーマも決めて、卒論制作へまっしぐらに突き進んでいくものなのだが、向山君には、よく言えばそうした常識に囚われることがまったくなかった。このころのわたしはといえば、ちょうど大学院博士課程の内規も決まったところだったので、自分自身のゼミの出身者が大学院に入ったら、博士号請求論文を書かせて若手の学者研究者に育てようという野心に燃えており、じっさいその成果もさまざまに現れていたのだが、学部ゼミの向山君はちょっとヘンだけど面白い学生だなと思い、例外的にやりたいようにやらせることにした。なにしろアメリカ文学のゼミだというのに、彼は椎名林檎の歌詞の分析をすることから始まって、オーパーツの研究をしたり、さらには英語そのものの講義と称して “fuck” と “shit” の使い方などを大真面目に語ったりしたのである。そしてそれらの発表ではいちいち豪華なパンフレットを制作して配布したのだから、まさに講演会であった。その編集技術に感嘆したわたしは、まだインターネットが今日のようには成立していなかった時代、ゼミの中で雑誌でも作ったら面白いかな、と思って、年末の OBOG会用の名簿も兼ねた年刊誌  Panic Americana を創刊するよう、向山君にもちかけ、その創刊号はぶじ 1996年の暮れに出た。 1999年には、同じゼミで当初は後輩でありスタジオ・エトセトラの有力スタッフでもあった永野文香君がゼミ専用ウェブサイト Café Panic Americana を立ち上げている。そして驚くべきことに、それから 22年後の今年に至っても、向山君や永野君の後輩たちはその精神を引き継いで、毎年この年刊誌を確実に発行し続け、ウェブサイトを日々更新し続けているのである。

以上の経緯があるからこそ、わたしは次第に、大学院教育とは基本的に異なるのだから、学部教育は必ずしも学者的研究を手本にしなくてもいいのではないか、むしろ学部時代でしかできない独創性を自由に発揮できるものがいいのではないか、と思うようになった。いまでも毎年秋のゼミのガイダンスの時に、「卒論ではとにかく自分の好きで好きでたまらない対象を選び、周囲のみんなを楽しませるのが肝心だ」と説く背景には、向山君のような存在の影響がある。

しかし、彼が英米文学専攻へ入った究極の動機は、別のところにあった。「せっかく文学部に入ったんだから小説でも書こうと思って」と、しきりに自作の英語小説をわたしのところへ持参し「先生、小説読んでください」とコメントを求めるようになったのである。もちろん、文学部とはそもそも “Faculty of Letters” なのだから、じつは「文学の学部」ではなく「文の学部」、つまり「文献を扱う学部」である。しかし、純粋に文学創作熱に駆られた学生、それもテキサス生まれの帰国子女に文献学的な説教を施しても、それこそ野暮というもの。ひとつのとんでもない誤解からとてつもない文学的創造がなされないとも限らない。それがきっかけで才能あふれるダイヤモンドの原石が発掘できたら、なかなか面白いではないか。

そう考えたわたしは 1997年に、当時の三田文学編集長の加藤宗哉氏を説得して、「学生小説セレクション」というセクションをもうけてもらい、その第二回にゼミ生だった向山貴彦君によるホラー風味の短編小説「サツキの鉢」を推した(<三田文学> 51号 [一九九七年秋季号])。わたしと彼とは、当初は教師と生徒の間柄だったが、やがて最初の読者/批評家と小説家の間柄になったのである。

だが、まったく同時に、このころのわたしは、 1995年に『ニュー・アメリカニズム』(青土社)を出してからというもの、なぜか毎年のように学術書や評論書を出さねばならない量産体制のサイクルにはまり込んでいて、それを綱渡りするには、強力な助っ人が必要だった。そのことを卓越した DTP技術とアート感覚を備えた向山君に相談すると「いいですよ、先生、一緒に本を作りましょう」という答えが返って来た。かくして、わたしの提供したテクストに何ともアーティスティックな装幀が施された、一見学術書らしからぬ、限りなく美学的オブジェに近い華麗な一冊が出来上がる。拙著のうちでは、『メタフィクションの謀略』(筑摩書房、 1993年)に次ぐ批評理論書『メタファーはなぜ殺される——現代批評講義』(松柏社、 1999年)が、それだ。この時、わたしという書き手に対し、向山君はそのテクストを最大限に活かす編集者、すなわち紡ぎ手となった。

折しも<三田文学>デビューを飾った同じ 97年は画家・宮山香里との共作になる第一長編『童話物語』を自身の小出版社スタジオ・エトセトラから出版した年である。やがてこのインディーズ版を大出版社へ持ち込み、内容にも大幅に改訂を加えたうえで、 1999年には幻冬舎から刊行し直してメジャー・デビュー。新世紀に入ってからは、アメリカ南部はテキサスで生まれ育った帰国子女の特質を活かして『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』( 2001年)を刊行、このシリーズはたちまち人気を呼び七巻を数え、何と 150万部を越すベストセラーになり、英語再教育ブームに火をつける。2011年以降は学園ヴァイオレンス小説『ほたるの群れ』シリーズも 5巻まで書き継ぐ。まったく同じゼミでティム・バートンを専攻して卒論を制作した吉見知子君と池袋のナンジャタウンと水族館を借り切り華燭の典を挙げたのも、ちょうど「ビッグファットキャット」のシリーズが快進撃を続けている 2006年春のことであった。この時、実質的な仲人を頼まれたのが、わたしと小谷真理氏であった。

その過程で、以前はわれわれの三田のマンションに頻繁に来ていた彼はわれらふたりを何度となくスタジオ・エトセトラに招いてくれた。しかも、飲んで喋るばかりではない。彼はこう言うのだ。「先生、ゲームしましょう」

その結果、膨大なボードゲームを一緒にやり、あるときなどは「先生、ヴァーチャファイターしましょう」というので、難色を示すと「心配することはありません、ぼくが買ってあげます」とゲーム機ともどもプレゼントしてくれたことさえある。教師と生徒で始まった関係は読者と作家の関係になり、書き手と紡ぎ手、ひいては仲人と新郎の関係になり、そして最終的にはなんと遊び仲間になってしまった。

気が付いてみると、学部生時代の向山君自身は、どうしても気に入らない授業がひとつあるとかでとうとう必修単位を全うせず、何度となく休学をくりかえした挙句に、中退を余儀なくされている。しかし、彼に関する限り、そうしたことはまったく気にならない。定期的にゼミに招くと必ず新作の凝りに凝ったハンドアウト持参で面白い講演をしてくれるほどに、ゼミ愛が強かった。最後のゼミ講演になった 昨年 2017年 7月にも「二十歳の時に知りたかったこと」という卓越した話をしてくれて、後輩ゼミ生たちを大いに鼓舞するばかりか、打ち上げにもつきあってくれた。

俗に「よく学び、よく遊べ」というが、向山君を見ているとオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガのいう「遊戯する人類」すなわち「ホモ・ルーデンス」( Homo Ludens, 原著 1938年)の概念が思い出されてならない。人類の本質については考えること、生産することなどいろんな定義があるが、ホイジンガは人類の本質は遊ぶことであって、すでに人類が築き上げて来た会社や学校、戦争をはじめとするさまざまな組織にしても「遊ぶ精神」が貫いているのだという刺激的な仮説を提示したのだ。それは、学びと遊びの二項対立をまさに脱構築する洞察であった。向山君が天性のゲーマーであることの意味が、そこにある。

武蔵野赤十字病院における最後の対話となった今年 2018年 1月 6日にも、術後だからあまり話はできないと言いながら、2時間ものあいだ彼は相も変わらぬマシンガントークを繰り広げ、わたしと小谷真理氏を大いに楽しませてくれた。 1995年の初対面のときに感じた「ちょっとヘンな学生」という印象のもつ一種の過剰性は、まさに「遊ぶ精神」で「ものを創造すること」を重視する作家的想像力の発端だったのかもしれない。それは、「遊ぶ精神」と「学ぶ精神」とが必ずしもかけ離れてはいないこと、むしろ「遊ぶ精神」がなければ、真に何かを学ぶことで新しい何かを掴む「創る精神」など生まれるはずもないことを、実感させてやまない。


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ゲーム、ゲーム、ゲーム!

小谷真理

むこちゃんこと、向山貴彦君から習ったことというと、Mac使いや健康情報や動画作りの極意なんかもそうなんだけど、やっぱり「ゲーム」である。

90年代からゼロ年代にかけて、スタジオ・エトセトラへ、度々巽センセイと遊びに行った。必ず午前中に着くように、と言われていた。当時のわたしは、常に原稿締め切りに追い回されていて、CIAに目をつけられたスパイか十字軍に捕獲寸前のアサッシンといった感じで、職務を果たしながら逃げ回る、という毎日だった。ゲーム大会に招待された日も、だからまったく余裕もなく、前提がぜんぜんわからない状態で小金井のスタジオ・エトセトラに到着。

出迎えてくれたむこちゃんと猫蔵はチェシャ猫みたいな笑いを浮かべていた。あれは  2006年の結婚式が迫ったころだったか、むこちゃんは、猫蔵家との家族の初顔合わせの会で、両家全員でゲームをやった話をニヤニヤしながらしてくれた。結婚相手との家族会で、ゲーム?楽しそうだが発想がかなりヘンである
註:彼らの結婚式が全員参加のゲーム大会だったことは以下を参照。http://www.tatsumizemi.com/2000/02/kotani-mari-essays_2341.html

しかし、むこちゃんは厳かに宣言した。ゲームとはコミュニケーションなんです、まずピクショナリーから始めます。

わけもわからないまま、ピクショナリーをやった。面白かった。一通り終わったので、それでおしまいかと思ったら、それは単なる前菜で、それから書庫に案内され、天井まで積み上がった board gameから一つを選ぶように言われた。じゃあ、エルフェンランド、と選択し、数回勝負。センセイは不敵な微笑みを浮かべて静かに勝ち進み、むこちゃんは、とろいわたしに合わせて、負けてくれた。

いや、負けても負けていないな。なぜなら、ゲーム中、むこちゃんの実況がマシンガントークで展開。采配を振るっているのは明らかだから。効果は絶大だった。自分があやされている、ちっちゃな幼児になったかのようで、心と体がリラックスして来たから。で、ランチ。

むこちゃんは手作りの段ボール燻製を指差し、もうすぐですよ、と言った。

燻製肉が焼やきあがる寸前で、うまそうな匂いが漂っていた。やばい。これは絶対に美味しいはずだ。いよいよ肉をパンに挟んで、トマトやらレタスやら胡瓜やら詰め込むだけ詰め込んで、ハンバーガーを作る。まさに、アメリカン・テイストの極致。アメリカの食事で一番うまいのは、アウトドアのワイルドメシだと思い出した。彼らはサンドイッチやらホットドックやらハンバーガーやらを紙に包んで野外に持って言って、青空の下でゆっくり食べるのだ。むこちゃんは、優れたテキサス・スタイルの料理人だった。彼の食事趣味でついていけなかったのは、ドクターペッパーくらいで、他はほとんどパーフェクトだった。

しかも舌鼓を打ちながら、かっ飛ばすマシンガントークの打ち合いがめっちゃ楽しい。それから再び board game。オススメのゲームを数種類延々とやったなぁ。 

Board gameはドイツ製のものが多く、ドイツでは夕食後に家族全員参加でゲームをやるんですよ、とむこちゃんは説明してくれた。さらに、夜になってから始まったのは、日本のTVゲームで、その日は、とにかく真夜中までゲーム三昧。それまでの人生の中で、ゲームの知識はほとんどなかったから、ものすごく衝撃的だった。丸々一日、音楽鑑賞でも映画でも読書でも、スポーツでもなく、ゲーム三昧に費やす奴らがいたとは!

むこちゃんから習ったゲームで、一番忘れられないのは『サイレントヒル』である。90年代末に引っ越したばかりのマンションで手伝いをしていた学生たちと休憩していたら、プレステを持ったむこちゃんが猫蔵と現れた。彼は不敵な笑みを浮かべていた。そしてセッティングするとプレステのグリップを握らせ、さあ、行きましょう!と、わたしの背中を押してくれたのだった。

酷い体験だった。いきなりサイレントヒルの街中へ放り出され、鉄パイプで怪物を叩きのめしながら、トボトボとさまようのだ。霧と闇がひどく視界が遮られていていつどこから敵が襲ってくるかわからない。「ほら、真理さん、道路の広さがアメリカっぽいでしょう?」とむこちゃんは楽しそうに説明する。なるほどアメリカンな道幅だ。人が歩くより車でバンバン走るように作られている街のサイズが体感されるのだ。約一時間ほどで小学校にたどり着き、突然神経を逆なでにするような音響とともに、裏世界に投げ込まれた。怖すぎる!  なんなんだ、この素晴らしく、おっかない世界は!

その後、この恐怖感が忘れられない私は、プレステを買い締め切りの合間にサイレントヒルを延々とさまようことになる。建設中のビルの足場の端っこに立って、ずっと遠くの風力発電をよく眺めた。孤絶感満載の風景だがライトを消してじっとしていると、怪物も通り過ぎるのでなんとなく安堵感もあった。恐怖もあるけど、なんだか癒されるよね、とむこちゃんに言うと、彼はうっとりとしたように「いいですよねぇ」と相槌を打ってくれた。のちに彼の書いた『童話物語』を読んでいたときには、似たような感触があったから、彼も時々あそこに行っていたんじゃないかな。

こんな風にむこちゃんの薫陶を受けたせいか、TVゲームでは怪物がいる緊張感がないと物足りない、という、どうしようもなくダメな性癖を植えつけられてしまい、結局、『鬼武者』や『バイオハザード』や『ルール・オブ・ローズ』などに没入した。ドラクエにも FFにも乗り遅れていたわたしが偏向付きでゲームの教養を身に付けることができたのは、全て彼のおかげだ。すごく感謝している。何にでも凝り性だったから、飯はうまいし、彼自身の持病もあって健康には異常に気をつけて、その知識は我が家にも、惜しみなく注がれた。

いつだったか、むこちゃんに「幽霊って怖いよねえ」と言ったら、「でも、真理さん、幽霊がいるってことはあの世があるってことだから、安心できませんか?」と言われた。なんとなくその言葉が引っかかって、ひょっとすると、彼の好きだった『サイレントヒル』の街中を散歩しているんじゃないかな、と時々考える。


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大串尚代

向山君のことを思い出すと、いつも夜があけて朝日が入り込もうとする窓、のイメージが思い浮かぶ。夜と朝が交代するとき。新しい一日が始まる、その直前のぼんやりとした明かりが少しあいたカーテンの隙間からのぞくとき。

向山君とはじめて出会ったのは、たしか巽研究会のゼミ合宿のときだったと思う。わたしは大学院生だったが、コメント要員およびビブリオ添削係として学部の合宿に参加していたのだった。夏合宿では、学部の 3年生がはじめて研究発表をする。まだリサーチを始めたばかりの発表は、だいたい作家の来歴とか、これまでの作品はどういうものがあるのか、とか、短篇作品のちょっとした分析とか、そんな感じのことをぼそぼそと語っておわり、というのが珍しくない。初々しくもあり、素人くさくもあり、それはそれで貴重な経験だ(そしてそれが 4年生になるにつれてだんだん「研究」らしくなっていく)。

だが、その場にいるみんなの度肝を抜いたのが向山君の発表だったと思う。いや、「発表」ではなかった。あれは「講演」・・・というよりむしろ「ライブ」だった。たちながら、歩きながら、スティーヴン・キングとホラーというジャンルについて語りまくる向山君は、聴く者の心をぐっとつかむすべを本能的に知っているように思われた。ふだん下を向いている学生たちがみんな楽しそうに向山君をみつめていた。

いつ彼が、自分も小説を書いているということ、それは『童話物語』というタイトルであるということ、そして自分が作ったエトセトラ出版というところから刊行するのだ、という話を聞いたのか、記憶は定かではない。けれども「出たら買うからね」と言っていたわたしは、実際に出版されてすぐに『童話物語』を購入した。

いつもだったら買うだけ買って、あとで時間ができたら読もうと思いがちなわたしだけれども、このときはなぜか「すぐに読もう」と思い、家に帰るなり読み始めたのだった。読み始めたのは夕方頃だったと思う。そしてすぐにわたしは、ペチカやフィツが創り出す世界へと入り込んでしまった。向山君のことばのちからと、宮山香里さんの絵の美しさには、あらがいがたいものがあった。わたしは夜が更けるのもかまわずに読み進め、途中なんども泣きながら、そしてとうとう最後のページにたどり着いた。

ペチカとルージャンは天界の塔のはるか高いところで、消えていく虹をいつまでも眺め続けた。虹がほとんど見えなくなる頃、おだやかな風が吹いてくる。風はペチカの髪を少し持ち上げて、どこかペチカがまだ知らない世界へと吹き抜けていった。その風の行く先にあしたが広がっている。ペチカも、ルージャンも、そのほかのすべての人々も、まだ果てしない旅の途中だった。(スタジオ・エトセトラ版、474頁)

そのページを読み終わってふと見上げると、部屋の窓のカーテンの隙間から、しらじらと明けていく朝の光が見えていた。「あした」が始まっていた。

わたしはそのまま机にむかい、パソコンを起動させ、メーラーをたちあげた。そして、向山君率いるスタジオ・エトセトラに宛てて、童話物語の感想を書きつづった。書かずにはいられなかった。どんなことを書いたのかもういまでは細かい所は憶えていないけれども、ものすごく感動したということを、まだ物語から抜けきっていない頭で一生懸命書いていたような気がする。向山君が創り上げたのは、ものすごい物語だった。人をつき動かすような、すごい力をもっていた。

こんな思い出が、残りました。


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山口恭司

向山くんに初めて会った頃のことを、先週のことのように思い出します。表現したいことの塊のような、キラキラとした才能に溢れる人でした。

私が卒業後久しぶりにゼミ合宿に顔を出してみた時のことです。彼が『童話物語』を上梓して少し経った頃だったと思います。

在学生が真面目な文学の発表を続ける中、飛び入りの彼はひとり「英語で人とケンカするときのスラング」という内容の研究を真面目にまとめて発表し、合宿中のみんなを大笑いさせていました。次々に飛び出すあんな言葉、こんな言葉。また、その話術のうまいこと。巽先生も腹を抱えて笑っていました。

しかし、皮肉たっぷりのユーモアを展開させながらも、メガネの奥には人を笑わせて楽しませずにはいられないという、いたずら好きな優しい目が光っていました。

彼はいつも周りの人のことを考え幸せな気持ちにさせてくれた、そんなクリエイティブな優しい作家だったのだと思っています。

心よりご冥福をお祈りいたします。


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和佐田道子

向山さんのことを知ったのは、今から二十年以上前です。今の東館のところがまだ石畳の坂道で、途中に郵便局と赤い郵便ポストがあり、旧「幻の門」があった頃。1990年代後半当時、私は、ここの坂道は、いかにも三田のお山に登る、という感じがして、大勢の方が使っている西門より「幻の門」が好きでした。三田キャンパスに行くときは、あの門を通りたくて、必ず、今の東館があるところから構内に入っていました。この旧「幻の門」は大抵ひっそりとしていて、ゆっくりと左カーブを曲がって敷石の上り道を歩いて行くとき、今日はどんな「講義が聴けるかな」「誰に会えるかな」と、何かしらの新しい「知」や「人」に期待しつつ、その門をくぐっていました。当時、愛用の旧「幻の門」から入って、三田キャンパスで出会った数多くの「知」や「人」たちの中で、向山貴彦さんもまた、忘れられない人の一人です。

1990年代後半、正確には 1997年。1997年という年は、同じ年に『童話物語』を自費出版で刊行されていた向山さんにとっても、当時「三田文学」で書かせてもらっていた新人の書き手たち(その一人が私です)にとっても思い出深い一年だったのではないかと思います。

なぜなら、向山さんはご自分の手で『童話物語』を出版され、私は「三田文学」1997年春季号(No.49)に、自分の書いた小説が初めて掲載されました。これは第 4回三田文学新人賞をいただいた「ひつじの姉妹」という小説で、同時受賞の松本晴子さんの小説「BONES」と共に、1997年 4月の授賞式で当時の三田文学理事長でいらした江藤淳さんから新人賞を授与され、当時の三田文学編集長でいらした加藤宗哉さんのご指導の下、これから受賞後第一作を書こう、という執筆への希望に溢れている頃でした。

そんなときに、巽孝之先生から、君や松本晴子君と同じように書いている人がいるからと紹介されたのが向山貴彦さんでした。

確か、三田の西校舎の教室で紹介され、そのまま、先生の研究室へ学生たち数人で歩いて移動した記憶があります。その時は、春の終わりから初夏へと季節が移っていく頃で、空が真っ青に晴れ渡り、風が強い日でした。たまたま、研究室棟の前で、私が持っていた本やプリントをアスファルトの上に落としてしまい、風に飛ばされないよう焦って拾っている私を見て、すかさず、向山さんも同じようにしゃがんで、散らばったプリントを一緒に拾って下さいました。本やプリントを落とした瞬間、「あっ!」と小さく叫んで、まっさきに拾って下さったので、本当に心優しい方だと思いました。他にも数人の方が近くにいらしたのですが、咄嗟に拾って下さったのは、向山さんだけでした。私自身も、のんびりしている方で、誰かが何かを落としたりしても、なかなか、すぐに助けに駆けつけられない愚図な人間なので、このときの向山さんの素早い行動に、とても感銘を受けたのを覚えています。このとき、しゃがんでいる向山さんの膝や足首が目に入り、そのつくりがとても華奢で、ほっそりとしていて、女性の方に拾っていただいているような感じを受けました。プリントや本を拾ってくださる手つきも繊細で、とても女性的な印象でしたので、クラスの親しい女友達に拾ってもらったような安心感がありました。

それから、ご自身の『童話物語』を謹呈してくださり、まだ百枚程度の小説しか書いていなかった私は、向山さんが既に二段組のこの長編を書き下ろして、ご自分の手で刊行までされていることを知り、ほとんど脱帽でした。当時は、文芸誌で作品を発表し、それから単行本化という流れの、いわば既成概念にとらわれていた私は、その流通経路もご自分で手がけ、難なく書籍化してしまうという、向山さんの離れ業といいますか、発想の大胆さに大いに驚かされたものです。この初夏から受賞後第一作「1995年 3月のマウス」(百枚)を秋までになんとか書き上げ、三田文学 1997年秋季号(No.51)に掲載していただいたとき、その同じ号には、向山さんの短篇「サツキの鉢」が学生小説セレクション(巽孝之解説「生かすも殺すも三田の山では」)として載せられていました。同号には、松本晴子さんの受賞後第一作「S8」も掲載され、特集は、前年亡くなられた遠藤周作さんの「遠藤周作の晩年とその文学」でしたが、向山さんをはじめ、松本晴子さん、そして、私の三人は、「これから新しい自分の文学を書いていくんだ」という、新人の書き手特有の、若い意欲に溢れていた時期だったと思います。そのような意味からも、この三田文学 1997年秋季号に三人が一緒に掲載されたことは、とても佳い思い出です。

その掲載誌が出たあと、秋も終る頃だったと思いますが、松本晴子さんや向山さん、その他いろいろな学部生や院生の方々と巽先生を囲んだ食事会で、私は久しぶりに向山さんと再会しました。

その時、原稿の話などいろいろお話しさせていただいたと思うのですが、もっとも印象的だったのは、その時風邪気味だった私が、食後に医師から処方された風邪薬を飲んでいると、向山さんが、私の薬の包装を凝視しながら、「薬のことなら大抵わかるんですよ」と大きなため息をつきながら呟いたことでした。医師から処方された薬には、薬の名称が印刷されていて、向山さんは、なぜか、それを懸命に見ているようでした。私は向山さんの眼に、それまでいろいろな薬を飲んできた人の、ため息のような影を見たような気がしました。周囲の巽先生を囲んだ人たちは、大声でわらったり、美味しそうにお酒を飲んだりしていましたが、向山さんのその一言で、向山さんの病を背負った悲しみのようなものがすっぽりと、そこを覆っているような気がして、そこはただ、しんとしていました。

このような病を抱えた想いが私にも、わかったのは、私自身が産後に身体を大きく壊したときで、この時から十数年も後のことでした。

実は、向山さんに直接お会いしたのは、本を拾っていただいた時と、薬を飲んでいた食事会だけで、あとは、他の方々から向山さんのお話を伺ったりする程度でした。ただ、とても嬉しかったのは、その後、千葉大の大学院に在学中、大学生協や書店の店先で、向山さんのベストセラー本が平積みになっていることに気づいたときでした。やはり、同じ志を持って、三田文学という同じところで同じ新人としてご一緒した方が高く評価されるのは、まるで自分のことのように嬉しかったです。

その後も、続けてご本を刊行されているので、向山さんのお身体のことは、いつのまにか私の頭から抜け落ちていました。

思いがけず、今回の訃報に接し、同じ三田文学、三田キャンパスで、同じ時期に、何かを書いて出て行こうとしていた、初心の志を共有する方がお一人、いらっしゃらなくなることは、とても寂しいです。けれど、その方の書いたものは永遠に残ります。これまでと同じように、私は、本の著者にはその本を通じていつでも出会える、と思いつつ、向山さんの作品や本がいつまでも向山さんそのものだと思い、再読するたびに再会するような気持ちで居続けたいと思います。

ほんとうに、ささやかな思い出で恐縮ですが、私が知っている「向山貴彦さんのこと」は、こんなに心優しい思い出と、少ししんみりするエピソード、でした。あまりお目にかかったこのない私にまでお声をかけていただき、ありがとうございました。

最後になりましたが、当時の(もちろん今でも)巽先生の周辺には、いわわるアメリカの大学の創作科、クリエイティヴ・ライティングの学科のような雰囲気があって、そこに作家志望の人たちが数多く集っていたんだなあ、とつくづく思います。書き始めたばかりの、1997年の思い出と、心優しい向山貴彦さんに感謝の気持ちをこめて。また、執筆に全力を注がれた向山貴彦さんの人生に、心からの敬意を表します。ありがとうございました。

    
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永田範子(旧姓・小林)

初めてお会いしたときから変わらぬイメージは、飄々とした人。つかみどころがないようで、自分がある。弱いようで、強い。毒舌なのに暖かい。真逆の事象をありあまる才能とウィットでまとめてきらめかせるようなそんな人。

ゼミの行事にもよく参加して下さり、後輩にも多大な影響を与えてくださいました。

世の中を達観しているようで、決して諦めていない。興味がないようで、面白がっている。今でもあの独特の話し方が脳裏に浮かびます。

彼だったらこういう風に言うだろうなと思い出せる人は、人の記憶の中に生き続けることができる。

彼には、湿っぽいのは似合わない。

私たちは、彼から受け継いだウィットを持って生きていけばいい。

これをもって追悼の言葉とかえさせていただきます。
向山貴彦先輩、ありがとうございます。


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向山さんのこと

奥田詠二

向山さんに接した多くの人がおそらくそうであるように、僕も向山さんから多くのものを受け取り、そしてほとんどお返しができなかった一人である。

たしかスタジオで誕生日を祝っていただいたこともあるし、学生時代、軽く遊びに行ったつもりが、夜を徹して翌日の昼すぎまで延々と創作論を聞かされたこともある。例の結婚式では、何かのゲームで、当時最新型の(かなり高価な)ウォーターオーブンを当ててしまった( 10年以上経った今でも愛用している)。『スタジオエトセトラ 10周年記念冊子』も、なぜか二冊、自宅の本棚に並んでいる。

もちろんそれらの一つ一つは今となっては、いやずっと前からとても大切な宝物だが、僕が向山さんからもらった一番の宝物は、いつかのメールの末尾に短く書かれた、「いつか一緒に日本の出版を変える本を作ろう」という一言である。

向山さんは作家だが、単なる作家ではなかった。編集者であり、翻訳家であり、校正者であり、デザイナーであり、DTPオペレーターであり、営業マンでもあった。

本は、作家だけで作ることはできない。編集・デザイン・印刷・製本・販売それぞれの専門家が役割を果たして初めて一冊の本が出来上がる。向山さんは出版のスペシャリストかつジェネラリストであり、本作りにおいて生じるほぼすべての事柄に通じていた。

出版社に入り編集の仕事を始めた頃、僕は単なる編集者ではなく、本作りに関するすべてをできるようになりたい、と向山さんに言ったことがある。企画の芽の段階から、最後に読者の手に届くまでのすべての過程を一人で統括できるようになりたいと。その生意気な考えに、向山さんは強く賛同してくれた。そういう人が出てくれば出版の世界は必ず変わっていくだろうから頑張って、と応援してくれた。

向山さんにとって、書くこと、本を作ること、そして読者に読まれることはどれも同じくらい大切だったはずだ。そして、書くだけでは本にならず、本にしただけでは読者に読まれない、ということを、向山さんはよくわかっていたように思う。

誰かの頭の中の言葉が文字や文章として形を持ち、それが本となって誰か知らない人の手に届き、その人の心を深く動かしたり、その人に新しい何かを書かせたりする。出版とは不思議な営みで、どうしてこんなことが成り立つのかよくわからない。

向山さんはわかっていたのだろうか。それとも、同じように不思議に思っていたのだろうか。いつか会うことがあったら、聞いてみようと思っている。


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小泉由美子

2011年 9月 29日(木)、パニカメ 16号の編集部員はスタジオ・エトセトラにおいてたいへんあたたかく迎え入れられた。当初の目的としては、パニカメの初代編集長たる向山さんになにかお話を伺いにいったはずなのに、あれよあれよというまに編集部員たちのほうが丸裸にされ、あれよあれよというまに特技・趣味・関心とうとうが引き出され、あれよあれよというまにそれらはパニカメのコンテンツに組み込まれていった。その結果、パニカメ 16号には、椙浦由貴保さんの手相占いをいかした「YUKIHO3: Palm Reading」、小此木拓也くんの趣味をいかした「An Occurrence at Tokyo Tower: ラブプラスデート」、大枝香澄さんの絶妙にいかしたイラストによる「たつみくん」、そしてわたしの「A Photo Memoir: Tatsumi Seminar 2011」が寄せられることになった。

とはいえ、単にパニカメのコンテンツがふえただけではない。わたしはそれまで椙浦さんに手相という特技があることも、小此木くんにラブプラスという趣味があることも知らなかった(ラブプラスのデートの有り様は、わたしにとっては未知の世界であった)。大枝さんのイラストの大ファンであったけれども(巽ゼミのツイッターのアイコン「ポテトマン」は大枝さんの作品である)、向山さんのネーム&大枝さんのイラストという奇跡のコラボが「たつみくん」で実現した。傑作。あるいは、コンテンツ化はされなかったものの、江川くんと小此木くんを筆頭に「群馬廃墟冒険企画」がスタジオではとびだして、なんとなくみんな楽しく、なんとなくみんな仲良くなった。向山さんは、暗い場所に行くのならばカメラのバッテリーで動く LEDライトが便利だよ、だれも持っていないならば貸すよ、と言ってくれた。この日の模様を記録した動画と写真をあとからみんなに送ってくれた。なにより、編集部員一人一人の好きなことややりたいことの小さな小さな種をさぐりあてて、それをパニカメという土壌にうつしかえる作業を手助けしてくれて、なおかつそれをみんなで育てて咲かせる楽しさを、なんということなく示してくれた。

わたしにとって向山さんは、基本的に、著作や動画やゼミの特別講義や OBOG会において遠くで語っているか、あるいは誰かに語られている存在で、こんな人、あんな人、そんな人、というお話をあちらこちらで聞き、へえ、ほお、ふうむと頷いてきた。スタジオ・エトセトラでお会いしたのちもそれ以来はほとんどお話しすることもなく(わたしが人見知るので)、あいかわらず、ほお、ふうむ、へえ、と先生や先輩や後輩の語りに頷いてきた。したがって、わたしが直接共有した時間は、極めて小さい。けれども、あのたった一日のことをあのたった一日にいあわせた編集部員たちはかけがえなく覚えている。本棚にはスティーヴン・キングの洋書がたくさん並べてあった。ハンバーガーをみんなで食べた。へんてこりんな編集部員の心をやさしく拾ってくれた。あのひとかけらの時間がいまはただ眩い。


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120パーセントの想い

池谷有紗

向山さんに初めてお会いしたのは、当時大学 3年生だった 2012年 6月の半ばでした。

パ二カメ部員と、向山さんのご自宅へ伺い、パ二カメ制作における貴重なアドバイスを頂いただけでなく、向山さんが幼少期を過ごされた山口県の名物「瓦そば」を猫蔵さんが作って下さり、初めて目にする料理に興奮しながら美味しく頂いたことを今でも覚えています。

それから時が経ち、約 7か月後の 2013年 1月末に、私は突然、急性リンパ性白血病を患いました。その時には既に症状が進行していた為、即入院して治療に専念する必要があり、ゼミや学校も休むことに。「骨髄移植をしなければ助かる見込みは低い」と主治医に言われていた中、大変有難いことに非血縁者のドナーさんが見つかり、2013年 7月末に無事に骨髄移植を受け、同年の冬には退院することが出来ました。筆舌に尽くしがたい経験もたくさんあった中で、入院中に何よりも一番に感じていたのは、巽先生やゼミのメンバーを始めとした、支えて下さった多くの方々への「感謝」でした。

その後 2015年春に、無事に大学 3年生として復学をし、私は変わらずパ二カメ部に所属。同年の 6月、3年越しに再び向山さんにお会いする機会が訪れました。向山さんがゼミにお越し下さり、貴重なお話をしてくれたのです。

向山さんが人工透析をしながら学生生活を送られていたことを巽先生から伺っていた私は、白血病を患ったことをお話しすると、とても親身になって話を聞いて下さって、元気になったことを自分の事の様に喜んで下さいました。病と向き合いながらも日々をたくましく生きる大先輩から、温かい応援のお言葉を頂けて、とても心強くて、嬉しい気持ちで帰宅した記憶が鮮明に蘇ります。

それからも、向山さんはいつも応援のメッセージを下さって何度も心救われた経験がありました。2016年の 12月末には、卒論執筆が思う様に進まず行き詰っていた所に、ふと向山さんからメールが届きました。私の体調を気遣うだけでなく、向山さんと猫蔵さんがどれ程応援して下さっているか、ということが書かれたメールでした。スマホでスクリーンショットを取る程に嬉しくて、再び卒論に向き合うパワーを注入してもらい、無事に(巽先生にはご迷惑をおかけしましたが)卒論提出、卒業をすることが出来ました。そのご報告をした時も、向山さんは自分の事の様に喜んで下さいました。

卒業式を終えた 2017年 4月、向山さんと猫蔵さんがご自宅に招待して下さり、私の卒業お祝い会を開いてくれました。お 2人のご自宅で初めて食べて大好きになった瓦そばと、「卒業おめでとう」というプレートが乗ったショートケーキ、そして幾つかのプレゼントを用意して下さっていました。

私が今この追悼文を書きながら手元に置いている黒猫のマグカップは、お 2人から頂いた大切なプレゼントのひとつです。お 2人とお揃いのこのカップには、それぞれ違うワードが書いてあり、私のカップには「POETRY」と刻まれています。これは私が卒論で、アメリカのラッパー “Kendrick Lamar” のリリック(と、幾つかのアメリカ文学)を研究テーマに扱ったことから、お 2人が吟味して選んでくれたものでした。

私が卒論の研究テーマを前述のものに決め、悔いなく研究が出来たのも、2015年 6月に向山さんがゼミにお越しくださった際、「卒論のテーマは、自分が本当に心から好きだと思うものにした方が良い。無難だと思うものではなく、好きなものに全力のエネルギーを使いなさい。」というアドバイスを下さったからでした。

向山さんは、それ以外にも多くの大切なことを教えてくださいました。卒業お祝い会にて、向山さんが掛けてくれた、忘れられない言葉があります。

「何かに取り組むときに、120%目指してゼロになるならよい。80%を目指すのは、絶対にダメだ。」

2018年 3月 5日の夜、猫蔵さんからご連絡を頂き、翌日お 2人のご自宅へ駆けつけた時、猫蔵さんは一番辛いはずなのに、涙が止まらない私を優しく励ましてくれました。その際に、「向山さんは辛い症状、治療と闘いながらも、最後の最後まで『まだまだ、これから!』と、懸命に頑張られた」というお話を伺いました。それを聞き、向山さんは本当に最後まで「120%の気持ちと力」で人生を全うされたのだ、と強く確信し、溢れる涙と共に、向山さんへの敬意の念でいっぱいになりました。

私自身も、2013年の冬に突然病を患い、長い入院生活を送る上で一番に気づかされたのが、日常の中にあるささやかなたくさんの幸せでした。広い空を見て、太陽の光を浴びて、風を感じたり、食べたいものを食べて、やりたいことをやって、会いたい人に会えて、点滴のカテーテルを着けずに自由に身軽に動けること、何かを頑張ることの出来る健康な身体があること、そして何より家にいれること。もし、元気になったら出来ることには何でも全力で取り組むぞ、と思っていました。勿論、今でもその強い気持ちは変わらないですが、物凄いスピードで進んでいく日常の中において、時々そんなことを忘れてしまいそうになることがあったのも事実でした。

「やりたいことがあるなら今すぐ動くこと。愛と感謝は伝えられる時にすぐに伝えること。人生は有限ということを頭ではなく、心で分かることが大事。」

向山さんは、卒業お祝い会の時に、こんな言葉も伝えてくれていました。

向山さんと初めてお会いした大学 3年生の冬に白血病になって 5年。今年の夏に控えた、骨髄移植を受けてから 5年目の検査で異常がなければ、一般的には「完治」とみなすことができると言われています。

ずっと目標にしていたそのご報告を、猫蔵さん、そして、向山さんに必ず出来るように。お 2人への感謝と向山さんから頂いたたくさんのメッセージを絶対に忘れずに、私も引き続き一生懸命、120パーセントの気持ちで生きていこうと強く思っています。


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髙橋杏璃

学部生の追悼文執筆者は髙橋さんですよね、と大学院ゼミの先輩から伺ったときは、とても驚きました。巽先生がお決めになったとのことですが、まさに寝耳に水で、学部生を代表しての執筆という大役を務めるのが私なんかで良いのかと、気が引けました。それでも先生からの突然のご要望にお応えすべく、どんなエピソードを書こうかと思いを巡らせているときに、この状況を向山さんが知れば、私の気持ちを汲んで苦笑いするに違いないと思いました。というのも、向山さんこそ、巽先生からの「無茶振り」に最も応えてきたゼミ生だからです。

私が向山さんに初めてお会いしたのは 2年前、「特別講師」としてゼミにいらっしゃったときのことでした。以前より『ビッグ・ファット・キャット』シリーズの読者だったので、直接お話を伺える機会を楽しみにしていました。……そのはずなのに、いま強烈に覚えているのは、向山さんによる巽先生のモノマネが激似だったことと、「先生が知り尽くしているような王道作家を研究テーマに選んではいけません。だから僕はスティーヴン・キングを選んだんですよ。それでも先生は自分の分野になんとか絡めて話そうとしてくるんですけどね」と熱弁されていたことです。こうして向山さんは、その日が初対面だった私たち現役ゼミ生の心を瞬く間につかんでしまったのでした。

それだけ楽しそうに講義してくださっていた向山さんでしたので、その 1年後に再びゼミで特別講義をしてくださったとき「毎年のように僕を講義に呼ばなくてもいいのに。先生は絶対だと言うかもしれないけれど、パニカメ編集部員も僕のところへ挨拶に来なくていいんですよ。先生が 30人くらいゼミ生がいると言うから、ほとんど寝ずにこの資料と原稿作ったんですからね」と授業後に困ったように笑っていたのは、印象的でした。その講義は、向山さん自身が 20歳のときに知っておきたかったことをテーマとした、前回とは趣向の違う真面目なお話で(そうは言ってもやはり私が覚えているのは、「大学生のうちに恋愛しておかないと。誰かに好きですと告白できたり、そしてその結果振られても大丈夫だったりするのは、学生の特権なんですよ」と熱弁を振るっていらっしゃったことなのですが)、資料には項目ごとに自分でめくって答えを見ることができる仕掛けがあり、確かにこれを 30部用意するのは相当時間がかかるだろうなと、改めてありがたく思ったのを覚えています。

そんな向山さんの思いを知ってか知らずか、それからもことあるごとに先生は、私たち現役生と向山さんを引き合わせてくれました。「パニカメ係はまず向山に挨拶に行くように」「合宿係はなんと言っても向山が作った『FuckとShitの使いかた』の動画を見なければ」——。

向山さんはいつまでも先生の愛弟子であり、寝ずの準備で駆けつけて、また先生が急に呼ぶから困っちゃうなと、笑いながらも全力で講演してくれる OBなのです。

こうしてこれからも毎年パニカメ係は向山さんにご挨拶に伺い、合宿係は向山さん作の伝説の(そしてなんと言っても先生が大好きな)「FuckとShit」動画を見るのでしょう。先生、さすがに毎年同じ動画じゃみんなもう笑いませんよと、やっぱり向山さんが笑っている気がします。

向山さん、長年の無茶振り対応、お疲れ様でした。そしてゼミのために力を尽くしてくださって、本当にありがとうございました。


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<特別掲載>
解説『童話物語』巽孝之

待ちに待ったハイ・ファンタジーが、とうとう誕生した。

新人・向山貴彦の第一長編となる本書『童話物語』は多くの新鮮なアイデアが無数にきらめく宝庫である。だが、何といってもいちばんの魅力は、かつてないほど個性的なヒロインを演じるみなしごの少女ペチカだろう。南クローシャはトリニティーで育った彼女は、心の奥底ではいつも亡き母を慕いつづけ、誰よりももの●●の気持ちを理解できる能力に恵まれながらも、現実社会ではとにかく強く生き抜こうとするあまり、よくいえば元気いっぱい、わるくいえば性格に問題があるのではないかと思えるぐらい暴力的なふるまいに出る。そんな彼女が、ひょんなことから妖精のフィッツと知り合う。クローシャに伝わる童話が正しいとしたら、妖精は人間の友どころか世界を滅ぼす疫病ディーベの予兆でもあるはずだが、にもかかわらずふたりは妙に相性がよく、ケンカをくりかえしながらも旅を続ける。けれど、油断は禁物。追っ手の中にはかつて彼女に指と右目を潰されて恨み骨髄の巨大な守頭がおり、行く手にはさまざまな困難のうちでも最も手ごわい、もうひとりの妖精ヴォーと結託した悪の権化・炎水晶が待ちかまえているのだから。

はたして世界の果てには何があるのか。人々の憎悪をかきたてる炎水晶の魔手からペチカは逃げ切れるのか。そして、世界が終わるという「妖精の日」はどのように訪れるのか。

ひとたび本書を開けばさいご、あなたはこの、奇妙に屈折しながらも決して憎めない主人公ペチカにぐいぐい魅きつけられて、スリル満点のジェットコースター異世界旅行を満喫することになるだろう。ページを繰るのももどかしい、という表現はありふれているが、本書はまさしくあなたがこれまで読みたくて読みたくてしかたのなかった——にもかかわらず、世界にはなぜか実在しなかった——まったく新しいハイ・ファンタジーのおもしろさを、惜しみなく降り注いでくれるはずだ。


わたしが本書『童話物語』の原型を初めて目にしたのは、いまから二年ほどさかのぼる一九九七年初頭のことである。たまたま作者の向山貴彦君がわたしの主宰するアメリカ文学研究ゼミの三年生だった関係で、同年一月、彼のチームであるスタジオ・エトセトラが自主製作した『童話物語』を手渡されたのだった。もともと向山君は一九七〇年にアメリカ南部で生まれテキサス州で少年時代の大半をすごした帰国子女であり、日本語のみならず英文小説をも難なくこなす(短編としてはすでに「サツキの鉢」が『三田文学』一九九七年秋季号に掲載されている)。授業の発表のさいに製作してくる配布用資料ハンドアウトも、毎回マッキントッシュを駆使した年表あり写真あり文体パロディありという至れり尽くせりの冊子で、そのサーヴィス精神には深く印象づけられていた。関心領域も小説に限らず、アメリカン・コミックスから映画ノヴェライゼーションまで幅広い。しかしまさか、卒論テーマであるホラー作家スティーヴン・キングに関する研究を進めるかたわら、同学年のイラストレーター宮山香里君とともに総原稿枚数二千五百に及ぶ『童話物語』や『1234パズルミステリーズ』まで仕上げてしまうとは予想もせず、自主製作とはいえ、本格的な才能みなぎる物語構築力と凝りに凝った装丁・造本がみごとに融合したその出来栄えには、つくづく驚かされたものである。

すでにお読みになったかたなら、『童話物語』がミヒャエル・エンデやジョン・クロウリー、宮崎駿を連想させる骨太のハイ・ファンタジーとして完成度が高く、とりわけ根源的な悪を徹底して描くことができるという圧倒的な筆力に恵まれていることに気づかれたろう。それだけでも大変な達成であるはずだが、のみならずこの作者の場合、舞台となるクローシャの歴史や環境など設定のいっさいがっさいを、作家と画家のあいだであらかじめはっきりと視覚化し、それこそ被造物に魂を吹き込むかのような意気込みで製作したという点において、J・R・トールキン『指輪物語』以来の伝統を彷彿させる。それは明らかに私家版ないし同人誌出版のレヴェルを超えた、既成の文芸出版に挑戦するインディーズ出版の実験であり、徹底的な加筆改稿を経た本書においても、その野心的にして神経の行き届いた姿勢は脈々と受け継がれている。『童話物語』のもうひとつの魅力は書物へのなみなみならぬ愛情をしめしているところにあるけれども、それはまさしく、作者たちが本書そのものを深く愛し大切に育んだ足跡にほかならない。


折しも一九九〇年代は、童話ジャンルの読み直しがさかんになった時代だった。

ジェフ・ライマンが『オズの魔法使い』をリアリズム風に書き直した小説『夢の終わりに…』(一九九二)はいうまでもなく、マイケル・コーン監督が『白雪姫』を母娘関係中心のホラー仕立てで読み替えた映画『スノーホワイト』(九六)や、ダニエル・キイスが『眠れる森の美女』を精神医学の見地から脚色した長編『眠り姫』(九八)、わが国でもその流れを汲む野沢尚が同じ素材を料理してヒット作となったテレビドラマ『眠れる森』(九八)や宗田理が高度情報社会をターゲットにしたエンタテインメント『ぼくらのグリム・ファイル探検』(九八)など、傑作・問題作がひしめく。それに拍車をかけるように、桐生操の『本当は恐ろしいグリム童話』(九八)がベストセラー街道を驀進中だ。

ブームのゆえんをさぐるのは困難だが、現在とくに身体を切り刻むエピソードにみちみちた「童話の残虐生」がクローズアップされているのを考慮するかぎり、その背後には、ふだん人畜無害と信じられている童話の反教育的効果を想定しようとする向きがあるだろう。一九九七年七月に日本全国を騒がせた一四歳の少年・酒鬼薔薇聖斗による「須磨区少年殺人事件」や、続くバタフライ・ナイフによる「中学一年生女性教師刺殺事件」はたちまち「キレやすい中学生」像を露呈させたが、それら一連の少年非行と、そうした少年たちを培ったかもしれぬ「すでにキレていたグリム童話」再評価とは、おそらく現代文化の深層において密接に連動した社会現象である。そして本書を手にする読者もまた、当初ペチカは一三歳だが物語後半では一四歳●●●になっていることを知るだろう。

もちろん、童話が人間の集合的無意識からもたらされるもので、だからこそいつでもどこでも普遍的な魅力を失うことがないという通説にくみするならば、童話再評価は必ずしもいまの時代、いまの日本に限定されまい。むしろ、こう考え直すべきではないか——童話はその時代ごと、その場所ごとの文脈に応じて、たえず読み直され書き直されてきたのだ、と。本書『童話物語』にしても、舞台がわたしたちの暮らす現実とはちがう完全なる異世界で、そこに伝えられる童話もまったく独自のものという設定ながら、そもそもペチカの住む町の名トリニティー(三位一体)からしてキリスト教的ニュアンスが濃厚であるばかりか、いわゆる失楽園やバベルの塔、ソドムとゴモラを思わせるストーリー展開を隠し持つ。しかし、だからといって本書のオリジナリティを割引きしなくてはならない理由は、いささかもない。作者はおそらく、そうした聖書神話の内部にさえ、あらかじめキリスト教圏を超えて人類一般に普遍的な「物語」が胚胎しているのをたまたま見出し、それをたまたま二〇世紀末日本において書き直す「必然性」を感じたにすぎないのだろうから。

とはいえ、ここで作者が喝破した「物語」と「必然性」がいったい何であるかは、読者のみなさんそれぞれの読みかたに委ねられている。基本的に永遠不変の妖精世界よりも千変万化する人間世界を力強く肯定していくこの小説は、それ自体がさまざまな読者によって変化し多様化していくのを望んでやまない。わたし個人は、ペチカと対決する炎水晶の位置が今日の核兵器ともインターネット社会とも、はたまたノストラダムス的「恐怖の大王」とも重なるテクノロジー一般の寓喩を——とりわけテクノロジーが人間的無意識へ及ぼす副作用を——最も鋭角的に語っているように思われて、そこがいちばん興味深かったのだが、それすらもひとつの読みかたにすぎない。

やがて『童話物語』そのものも二一世紀の新しい童話となるだろう。これを読み直し書き直すところから、また新たなハイ・ファンタジーが織り紡がれていくことだろう。「誰だって、自分が思っているよりはすごい人間だよ」という本書最大のメッセージは、誰よりも創造的な読者のすべてに向けて、放たれている。

一九九九年三月二十日

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向山貴彦と宮山香里の共作『童話物語』が幻冬舎から豪華なハードカバー版の体裁で出版されたのは、一九九九年初春。山田詠美の『マグネット』と並ぶ「幻冬舎の新刊」として、朝日・毎日・読売各新聞紙上に出現した。鳴り物入りの大々的な新聞広告は、いまも記憶に新しい(三月二七日〜二八日)。

以来、丸二年。ここにとうとう同書の文庫版をお届けできることを、心よりうれしく思う。一冊の単行本が出版されるというのはたいへんなことがだ、さらにそれが文庫に収められるというのは基本的に、その本が多くの読者と高い評価を得て、以後、長く読み継がれるべき「古典」としてのステイタスを占めたという事実を意味する。だが、本書『童話物語』に関する限り、それはもうひとつ、インターネット時代ならではの現象を引き起こした点で、特異な輝きを放つ。そう、作者たちの運営するウェブサイト<スタジオ・エトセトラ>において、同作品のメイキングや外伝が発表されたことも手伝ってか(http://www.studioetcetera.com/staff/mobs/many=tales/index.html)、『童話物語』の設定に心酔する少なからぬ愛読者たちが、同じ設定を用いてさまざまな枝篇や外伝やキャラクターへのオマージュなどを、ぞくぞく発表し始めたのである。作者たちが本書を簡略化して呼ぶ通称はずばり「童話」なのだが、これはグリム童話のブーム再燃ともあいまって、じつに複合的な「童話という現象」を浮かび上がらせている。そこえ折よく文庫化が決定したのだから、人気はますます高まるにちがいない。しかも、この六月一一日から六月二十三日までのあいだには、共作者のひとり宮山香里が『童話物語』を中心にした個展を東京・銀座の画廊「SPACE11」で開催している(http://www.studioetcetera.com/exhibition/)。

したがってわたしも今回、現在の視点よりハードカバー版解説を加筆改稿することを一度は考えはしたものの、読み直してみるに、これはこれで、一九九七年の時点において、作者たち自身がいかにインディーズ版出版に踏み切ったか、そのいきさつから説き起こしてるし、歴史的意義をじゅうぶんに果たしていると思い、あえて手を加えなかった。その代わり本文庫版では、作者たちの手になる設定資料集その他とともに、さていかにして「童話という現象」が発生することになったか、そのあたりをメモする「文庫版解説」を新たに書き下ろし、ここに併録させていただくことにした次第である。


『童話物語』のいちばんの魅力が、いささか屈折した少女ペチカの活躍にあることは、お読みになったかたなら、まず異論のないところだろう。ネットでの意見のなかには、筆者による解説でペチカがずいぶんひねくれたヒロインのように形容されているが、そんなことはない、自分はすんなり感情移入できた、と主張する向きもあったが、まさにそうした熱狂的な読者を生み出すほどに、ペチカは物語をこれでもかこれでもかと引きずり回しつつ、圧倒的にさわやかな読後感を与えてやまない。

多様なる書評が輩出したのも、当然のことだった。その代表的なものからいくつか、ここにご紹介してみよう。

★一番おもしろかったのは、少女ペチカをうちのめす貧しさやひもじさ、羞恥心への関心である。飽食の時代、奢侈に流れる物質文明に慣れきった我々と同じ空気を呼吸しているはずの筆者が描く極貧に関する洞察やロマンチシズムはなぜかリアル。この貧しさからペチカが「もの」の心を読み取れる能力を身につけていくというのも、説得力にあふれている(小谷真理、幻冬舎刊<ポンツーン>一九九九年五月号)。

★現在書かれているYAファンタジーの多くが、魔法や予言や神々を扱っているにせよ、スタイルとしてはどう見ても歴史小説であるのに対し、この作品はまぎれもなくファンタジーである。(中略)全編を読み終えたあとでは、これはもしかしたら江戸の黄表紙本の文体にきちんとつながっているのではという気もしてきた。宮崎アニメを一本観たのと同じような感覚体験をさせてもらった本書だが、案外これは『八犬伝』のヴィジュアル描写と同根であるのかもしれない。挿絵画家との緊密な共同作業も、そのことを感じさせる(井辻朱美、<週刊読書人>一九九九年六月四日付)。

★全人類に読んでいただきたい傑作ファンタジーが誕生した。(中略)正真正銘、本物の傑作!(中略)さて、この作品がいかにファンタジーとして優れているかという理由としては、通貨の単位から時間や距離の観念に至るまで、此処とは違う別の世界観を0から創造している点を挙げたい。作者の向山貴彦とともにその功績を担っているのが挿絵の宮山香里氏。(中略)素晴らしい物語と挿絵は、そんなふうに読者を創造の輪の中に引き込んでくれるものなのだ(豊崎由美、<GINZA>一九九九年八月号)。

★『童話物語』は、若い才能が紡ぎ出した、得がたい大人の「おとぎばなし」である。貧しく性格の悪い少女ペチカが妖精フィッツとともに大陸を旅し、予言された世界の終末を乗り越えてゆくストーリーには、テクノロジー文明に対する批評とともに、生きるに値しない世界などないという強いメッセージがこめられている(丁田隆、<第三文明>一九九九年六月号)。

★向山の「もの語りストリーテリング」は、読む人を魅了してやまないが、彼の圧倒的な筆致を支えているのが、宮山香里による挿画である。本編にちりばめられた彼女のイラストは本編の添え物などでは決してない。繊細でやさしい色使いの画は、ペチカの住むクローシャ大陸の世界を視覚化し、読者の想像力を妨げるどころかむしろ広げてくれるほどである。宮山のイラストがあってはじめて、この物語が完成するといってもよい。文と絵がこよなく調和する異世界ファンタジー『童話物語』は、間違いなく今後広く語られるべき「お話」となるだろう(大串尚代、<三田文学>一九九九年夏季号)。

このほかにも、ネット系絶賛のたぐいは枚挙にいとまがないが、ただ前述したとおり、出版後二年間でいちばん特筆すべきは、まさしく『童話物語』に没入した読者の一部が、自らもその世界に住まうべく、筆を執るようになったことである。

あなたにも記憶がないだろうか、寝食忘れてのめり込み読みふけった童話あるいは児童文学の主人公が、いつしか自分の想像力に入り込み区別がつかなくなるようなかたちで、独自に活躍し始めたことを。とうに忘れ果ててしまったかもしれない。しかし、だとしたらなおさらのこと、幼き日の感動が自分の現在のそこここに、知らず知らずのうちに影を落としている可能性は否定できない。そして、仮にあなた自らがものを書くのが嫌いでないタイプだったら、そしてこの作品によって一定のクリエイティヴィティを触発されたとしたら、つぎのステップはただひとつ、自分自身の手で『童話物語』を書くことに尽きる。げんに、涙が出るほど本書に感動した若い読み手たちは、一夜明けると新しい書き手として生まれ変わり、つぎつぎとオリジナルな『童話物語』を書き始め、「描き」始めた。その成果の一端は、下記のウェブサイトにて堪能することができる。「十六夜月」(http://www4.plala.or.jp/izayoi-moon/);「夢のかけら」(http://village.infoweb.ne.jp/~fwkd3962/)。


とはいえふりかえってみると、ほんらい向山貴彦・宮山香里のふたりは、一九九〇年代半ば、創作者集団スタジオ・エトセトラの中で、物語内部のローテク世界とはおよびもつかないハイテク装置を駆使しつつ、いわばひとつの強力なるチームワークの結果、この類稀なるハイ・ファンタジーを織り紡いだのだった。表現者個人としての向山・宮山ふたりの青春感覚あふれる出会いについては、前者による「童話物語メモリアル」(http://www.studioetcetera.com/staff/mobs/memorial/top.html/)および後者による「向山貴彦、スタジオ・エトセトラとの出会い」(http://www.studioetcetera.com/staff/kaori/book/Book.html/)に詳しいが、いささか逆説的ながら、まさに彼らが手に手を取って、このみごとな共作●●●●●●をなしとげたからこそ、いまの両者それぞれの独特なる個性●●●●●●が確立することになったのもまた、たしかなことである。

してみると、『童話物語』はそもそもの成り立ちからして、このハイ・ファンタジー世界クローシャを多くの人々と共有しつつ発展させていこうとする意志を含んでいたことが判明しよう。しかもそこは、それを愛する者たちの個性をいたずらに埋没させるのではなく、むしろそれぞれに大きく開花させるような魔力をもつ独特の時空間だ。したがって本書の愛読者たちが、インターネット内部に広がる電脳空間の地の利を活かし、つぎつぎに新たな『童話物語』を書き綴り、いわば向山・宮山コンビの新たなる共作者としてぞくぞく名乗りを挙げている「現象」は、起こるべくして起こったといってよい。ひとりの受け手から大勢に歓迎される送り手になること。そう、いまにしてみれば、「誰だって、自分が思っているよりはすごい人間だよ」という本書最大の殺し文句は、すべての愛読者を「もうひとりの共作者」へなるべく誘い込む、最も強烈なメッセージだったことが判明しよう。


二〇世紀末期、『童話物語』はひとつの伝統的な文学として書かれた。

二一世紀初頭、『童話物語』がひとつの革新的な文化として広く深く浸透していることを抜きには伝統的な文学ひとつ語れない時代を、いまのわたしたちは迎えている。

二〇〇一年六月八日 於・三田

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写真

 2016年度 巽ゼミOBOG会( 2016年 12月 3日)
@六本木ミッドタウン
オランジュ&ミルウォーキー・バー

 2016年度 巽ゼミOBOG会( 2016年 12月 3日)
@六本木ミッドタウン
オランジュ&ミルウォーキー・バー
巽先生還暦記念ランチョン( 2015年 4月 26日)
@丸の内オアゾ 5Fアマルフィ・モデルナ


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■ 150万部!『世界一簡単な英語の本』(過去のCPA Recommends: 2002)
■ 『ほたるの群れ 2』刊行!(CPA: 2011/11/23)
■ 『ほたるの群れ3』刊行!(CPA: 2012/05/12)
■ 『ほたるの群れ4』刊行!(CPA: 2012/10/23)

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※括弧内は、向山貴彦さんによる文章のタイトル。

#1: “What Goes In Must Come Out”
#2: 「COUNT DOWN 第一話:BLACKBOX」
#3: 「800:漫画家になれなかった理由」
#4: 「今年のワンパラ」
#6: 「漢のための恋愛講座」
#7: 「三大記念インタビュー」
#10: 「パニカメ誕生秘話」
#11: 「最終エレベーター」(向山貴彦&吉見知子)
#14: 「巽孝之大辞典&巽ゼミ教養講座:巽孝之っぽい文章の書き方」(向山貴彦&吉見知子)
#16: 「いままでとこれからのパニカメ」
#17: 「re: 三十年目の書き直し」

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【関連書籍】
向山貴彦著、宮山香里絵『童話物語 〈上〉 大きなお話の始まり (幻冬舎文庫)』(幻冬舎、2001年)


向山貴彦著、宮山香里絵『童話物語 〈下〉 大きなお話の終わり (幻冬舎文庫)』(幻冬舎、2001年)


向山貴彦『ほたるの群れ1 第一話 集 (幻冬舎文庫)』(幻冬舎、2011年)


向山貴彦『ほたるの群れ2 第二話 糾 (幻冬舎文庫)』(幻冬舎、2011年)


向山貴彦『ほたるの群れ3 第三話 阿 (幻冬舎文庫)』(幻冬舎、2012年)


向山貴彦『ほたるの群れ4 第四話 瞬 (幻冬舎文庫)』(幻冬舎、2012年)


向山義彦『ちゅうちゃん』(幻冬舎、2017年;監修:向山貴彦、文章補作・編集・演出:吉見知子/イラスト:たかしまてつを/装丁・デザイン:竹村洋司)


『三田文学』No. 132( 2018年冬季号)向山貴彦「西脇順三郎とちゅうちゃん」


宮坂敬造・岡田光弘・坂上貴之・坂本光・巽孝之編『リスクの誘惑』(慶應義塾大学出版会、2011年)向山貴彦「一/六〇秒の永遠」


スタジオ・エトセトラ編、向山貴彦 文、たかしまてつを絵、向山淳子 監修『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の大百科事典』(幻冬舎、2017年)


向山淳子、向山貴彦、スタジオ・エトセトラ、たかしまてつを『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』(幻冬舎、2001年)


向山貴彦、スタジオ・エトセトラ、たかしまてつを『ビッグ・ファット・キャットとマスタード・パイ』(幻冬舎、2002年)


『ビッグ・ファット・キャット、街へ行く』(幻冬舎、2003年)


『ビッグ・ファット・キャットとゴースト・アベニュー』(幻冬舎、2003年)


『ビッグ・ファット・キャットとマジック・パイ・ショップ』(幻冬舎、2003年)


『ビッグ・ファット・キャットvs. ミスター・ジョーンズ』(幻冬舎、2004年)


『ビッグ・ファット・キャットとフォーチュン・クッキー』(幻冬舎、2004年)


『ビッグ・ファット・キャットと雪の夜』(幻冬舎、2004年)