#10 Yoshiharu Suenobu

さる 2016年 11月 23日(水)に、慶應義塾大学三田キャンパスにて、末延芳晴氏による特別講演会「永井荷風と慶應義塾」が開催されました。末延氏は、2005年度上半期に、久保田万太郎記念講座特別招聘講師を務められ、同年末には本講座の学生により荷風の戯曲「異郷の恋」が、 HAPP (“Hiyoshi Art and Performance Project” 日吉行事企画委員会) 企画を通じて上演されました。今回の Panic Literati では、末延氏の著書『荷風のあめりか』(平凡社、2005年;初版 1997年)に収録された巽先生の解説「ボヘミアン・ラプソディ明治篇」と、前掲戯曲「異教の恋」パンフレットに寄せられた巽先生による「青春ドラマの起源」をお蔵出しいたします!

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CONTENTS
写真:末延芳晴氏特別講演会「永井荷風と慶應義塾」
( 2016年 11月 23日@慶應義塾大学三田キャンパス)



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関連書籍


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写真:末延芳晴氏特別講演会「永井荷風と慶應義塾」
2016年 11月 23日(水)午後 4時半〜 6時半
慶應義塾大学三田キャンパス 南校舎 472教室
司会:巽孝之
主催:文部科学省科学研究費助成事業基盤研究 (C) 15K02349「モダニズム文学形成期の慶應義塾の介在と役割」
共催:三田文學会慶應義塾大学藝文學會













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ボヘミアン・ラプソディ明治篇 
末延芳晴著『荷風のあめりか』(平凡社、2005 年;初版 1997年)解説
巽孝之


一度でもアメリカに滞在したことがあれば、先人たちの体験記が気になるだろう。アメリカについて思いを馳せるとき、ひとは知らず知らずのうちに、アメリカに対して抱く夢と悪夢、成功への野心と挫折の屈辱を吐露してやまない。アメリカについて実体験を物語るとき、ひとは誰しも、天才的な青春小説家になる。それが生涯にただ一度の奇跡でしかない、としても。

わたしの場合、1980年代なかばに 3年間ほどニューヨーク州イサカに位置するコーネル大学大学院に留学し、主として 19世紀の英米文学や批評理論を研究していたのだが、異国での勉強や論文の執筆に疲れると、きまってその手のアメリカ体験記に手を伸ばした。たとえば文芸評論家・江藤淳がプリンストン大学留学経験を語った『アメリカと私』(文春文庫、初版 1965年)やフォトジャーナリスト・吉田ルイ子がコロンビア大学留学を回想した『ハーレムの熱い日々』(講談社文庫、初版 1972年)、寺山修司がニューヨーク演劇事情を視察した『アメリカ地獄めぐり』(河出文庫、初版 1971年)や金関寿夫が最先端作家・芸術家にインタビューした『アメリカは語る』(講談社現代新書、初版 1983年)などは、何度読み返したかわからない。先人たちの足取りにふれ、先人たちがいかにアメリカの生き生きとした声と対話しながら暮らしてきたか、いかに力強く生き延びてきたのかを読み直すたびに、わたしはとてつもない勇気を与えられ、自然と心が落ち着いたものである。いまの若い世代だったら、以上のリストに村上春樹のプリンストン大学滞在記である『やがて哀しき外国語』(講談社文庫、1997年)を加えるかもしれない。

永井荷風が 1903年から 4年間のアメリカ体験をもとにした『あめりか物語』(岩波文庫ほか、初版 1908年)を読んだのは、とうにわたし自身の留学を終えてのち、1990年代に入ってからのことだ。当時、『三田文学』の編集長だった慶應義塾大学名誉教授のフランス文学者・古屋健三先生のご厚意で、誌上にわたしは村上春樹や村上龍に関する評論を寄稿させていただいたのだが、その折に先生が「アメリカ文学を専攻しているのなら、いずれ永井荷風を論じてほしい」と仰ったのである。一読して、『あめりか物語』の短篇ひとつひとつが、世紀転換期アメリカの都市空間を丁寧に切り取り、しかも荷風の同時代人である哲学者・九鬼周造の『「いき」の構造』(岩波文庫ほか、1930年発表)で解析される日本的精神と絶妙に溶け合うのを、心ゆくまで堪能した。ここで展開されるのは「旧恨」にさしはさまれる「恋は浮浪漢ボヘミヤの児よ」なる一節が象徴するごとく、アメリカン・ソドムというよりもボヘミアン・ライフにほかならないが(今橋映子『異都憧憬 日本人のパリ』[柏書房、1993年。後に平凡社ライブラリー、2001年]第 3章参照)、それは翻って、日本的な「いき」の美学と共振するところがあまりにも多い。

たとえば「林間」で白人兵士から別れを切り出される黒人娘が「後生だから……(中略)それじゃ、もう、どうしても別れてくれってお云いなさるんですね」とすがったり、「寝覚め」に登場する主人公・沢崎の事務所で同僚になるアメリカ女性ミセス・デニングが、死に別れた夫を「良人の居ます時分はほんとに面白う御ざいました」と回想したり、「六月の夜の夢」の愛らしいロザリンが「イギリス人は斃れるまでも笑って戦う。だからもしや一生独身で暮すような事になっても、私は死ぬまで此の通り何時までも此の通りのお転婆娘でしょう」と決意を表明したりする言葉遣いからも、切々と伝わってくる。荷風の愛してやまぬ「西洋の女」が、いつしか江戸の花柳界をも彷彿とさせる異性への媚態を呈していくときほど、「いき」を感じる瞬間はない。げんに九鬼周造は「いき」の徴表として「媚態」「意気地」「諦め」の三要素を挙げているが、まさにその「媚態」を論ずるところで荷風を引証に使ってみせる。

永井荷風が『歓楽』のうちで「得ようとして、得たあとの女ほど情無いものはない」と云っているのは、異性の双方において活躍していた媚態の自己消滅によってもたらされた「倦怠、絶望、嫌悪」の情を意味しているに相違ない。それ故に、二元的関係を持続せしめること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって『歓楽』の要諦である。(第 2章「『いき』の内包的構造」)

これまで世紀転換期の留学体験記としては、ヴィクトリア朝より世界の中心の名をほしいままにしたイギリスを伝える夏目漱石や小泉信三の著書ぐらいしかなじみがなかったわたしにとって、これから 20世紀の中心になろうとするアメリカ合衆国で長く暮らしながら江戸的感性を失わない荷風の遊学体験記は、一味も二味もちがう強烈な魅力を放った。留学後に『あめりか物語』を読んだのは、ひとつの僥倖だったかもしれない。

じっさい留学という概念には、それこそ 18世紀ヨーロッパにおける富裕階級子女の「グランド・ツアー」の時代より、「文明の進んだ国家の文物を吸収し、自己の形成とともに自国の発展に寄与するかたちで持ち帰る」という確固たる目的論が、むかしもいまも刷り込まれているだろう。とりわけ明治時代には、欧米が進んでいて日本が遅れているという意識が、長くわが国を支配していただろう。げんに夏目漱石や森鴎外は、明治政府の期待を一身に受け、国家の発展の尖兵として官費による留学を果たしたが、荷風の場合はそれとはまったく異なり、日本郵船横浜支店長の息子に生まれた好条件を活かして、日本国家を背負うでもなく何らかの大義名分を全うするでもなく、たんに文学を修めるためにのみ旅立ち、そして海外の最も先端的な文物ならぬ最も俗悪猥雑なる都市文化にどっぷり漬かることでのみ、この私費による遊学を、実り多きものにした。このとき、荷風にとって都市は自然となり、自己は透明となった。そこにこそ、漱石には見えなかったものを荷風が見てしまったゆえんがある。留学に挫折した漱石と遊学に成功した荷風の対比が意味を持つのは、まさにこの水準においてであろう。

その意味で、今日では『漱石とその時代』(新潮社、1970-99年、未完)を中核に保守派論客として語り継がれる江藤淳が、じつはその晩年、漱石とは対極を成す永井荷風についても 1冊の批評書『紅茶のあとさき』(新潮社、1996年)を残しているのは、注目に価しよう。慶應義塾大学出身の江藤にとって、荷風が『三田文学』初代編集長であったことへの親近感は必然だったかもしれない。だがそれ以上に、江藤自身が 1962年にロックフェラー財団によってプリンストン大学へ留学した当初、ジャズ・エイジの旗手で同大学ゆかりの作家スコット・フィッツジェラルドに親近感を覚え、本格的に研究しようかと、いったんは考えていたことを、忘れるわけにはいくまい。のちに批評家ジョージ・スタイナーや学匠作家ウンベルト・エーコ、構造主義思想家クロード・レヴィ=ストロースらと積極的な対話を交わすようになるから、江藤をヨーロッパ系の文学者と対比する視点はあるが、かつてジャズ・エイジ・アメリカに惹かれたときに、荷風の影を見ていなかったとはいえまい。漱石を語る者は、必然的に荷風のことも語らざるをえなくなるのかもしれない。

***

さて、本書『荷風のあめりか』(初版時のタイトルは『永井荷風の見たあめりか』)の著者・末延芳晴氏の文学研究は、江藤淳とはまったく逆に、1994年にアメリカ遊学時代の荷風を中心にした雑誌連載から出発して、そのきっかり 10年後、2004四年に刊行した近著『夏目金之助 、ロンドンに狂せり』(青土社)においてイギリス留学時代の漱石に挑戦するという歩みを示す。ご自身が四半世紀にわたるアメリカ生活を送り、1974年から 87年までニューヨーク総領事館に勤務された著者は、文学とともに音楽にも造詣が深いため、最初の単著は『メトロポリタン歌劇場』(音楽之友社、1993年)、第 2作が『回想のジョン・ケージ』(音楽之友社、1996年)で、それに続く第 3作が、雑誌連載を大幅に加筆改稿した本書初版『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)となり、さらには本書続編ないし資料編ともいえる第 4著書『荷風とニューヨーク』(青土社、2002年)も出版されている。

わたし自身が末延芳晴という名前を初めて知ったのは、本書の原型が、バブルがはじけてもなお快進撃を続けていた中央公論社の看板ファッション雑誌<マリ・クレール>誌に、絵葉書の写真も豪華に連載されていたとき、つまり 1994年のことである。同誌は、一部では「女装する文芸誌」とか渾名されながらも良質の文学特集をたくさん行い、わたしもアメリカ文学特集となれば駆り出されたり、年に一度の読書特集では必ずお鉢が回ってきたりと、まことに楽しく執筆していた時代であった。雑誌とはまことに不思議で、同じメディアに寄稿しているうち、末延氏とは会ったこともないのに、その文章より妙な親近感を覚えていたものだ。理由はいくつかあるが、いささか手前味噌になるのをお許しいただけるなら、わたし自身が 19世紀アメリカ・ロマン派を代表するニューヨーク作家ハーマン・メルヴィルのセクシュアリティを軸にした都市文学論を試み、それを支える理論としても、ティモシー・ギルフォイルの『エロスの都市−−ニューヨーク・シティ、売春、性の商品化』(ノートン、1992年)やジョージ・チョーンシーの『ゲイ・ニューヨーク−− 1890年から 1940年までの性差、都会文化、ゲイ男性共同体の形成』(ベーシック・ブックス、1994年)などが出そろっていたことが大きい。その成果は 1995年に『ニューヨークの世紀末』(筑摩書房)というかたちに結実したのだが、いまふりかえってみると、わたしがメルヴィルやヘンリー・アダムズ、マルセル・デュシャンからスコット・フィッツジェラルド、トム・ウルフからトニー・クシュナーに至るアメリカ作家たちを中心にニューヨークという都市そのものを支える性的構造を解明しようと躍起になっていたまさに同じころ、末延氏は永井荷風を中心にして、都市文学の根本を支えるボヘミアン精神を明らかにしようと尽力されていたことになる。

だからこそ、連載終了から 3年後に単行本にまとまったとき、たまたま<読売新聞>の読書委員をやっていたわたしは、矢も楯もたまらず、『永井荷風の見たあめりか』を取り上げた。荷風文学に関してはズブの素人だったにもかかわらず、右に記した理由から、本書で主役となるニューヨーク・ボヘミアンについては、わが国では自分がいちばん理解しているという自負があったのだ。以下、<読売新聞> 1998年 1月 18日付に掲載された拙文全文をお目にかけよう。

4年前、<マリ・クレール>誌に連載されていた本書の原型は、毎月待ち遠しい読みものだった。 
世紀末都市論で賑わう昨今ながら、まず作家・永井荷風の文学的原型を、『あめりか物語』(1908年)に綴られた世紀転換期アメリカの文化史内部に再探究するという着想が、オリジナリティにあふれていた。さらに、その傍証として当時の華麗な絵葉書が惜しげもなく満載されるという演出が、サービス精神満点だった。読んで面白く観ても楽しいというのは、雑誌連載の鑑ではあるまいか。 
その論考を今般、大幅な加筆改稿を経てまとめたのが、待ちに待った本書である。単行本の制約上、絵葉書の分量がやや減らされてはいるものの、しかし西海岸から東海岸へ移動する荷風を追う著者の筆致は、それ自体がロード・ムービー的ともいえるほど、視覚的想像力を刺激してやまない。 
本書の基本的主張は至って明晰である。荷風は、日本および米国内日本人社会においては、日本郵船横浜支店長の御曹子および新進作家という記号的優越性を備えていたが、他方、いわゆる白人男性中心のアメリカ社会一般においては−−特にメトロポリタン歌劇場においては−−それこそたんなる群衆の人、一介の都市遊歩者にすぎないという自分の無記号性を思い知り、まさにそれゆえに彼は自然や芸術、そして女性との関係を深めていった。にもかかわらず、荷風が恋人イデスらと別れたのは、愛と言語の二者択一を迫られた時、彼が迷うことなく後者、すなわち「日本語で書くこと」を目的として選び取ったからだ。そしてそこにこそ、夏目漱石や森鴎外と異なる 20世紀作家・荷風の新しさがあるのだ、と著者は結ぶ。 
本書の荷風はさらに陶淵明からジョン・レノン、永山則夫とも通底する存在として時間と空間を超える。荷風の自由な文学が末延氏自身の自由な批評とみごとに融合した、これは希有な達成である。

右の書評は、いま読み直しても嘘はない。ほんのひとつだけ、補うべき点があるとするなら、冒頭に記した「アメリカ体験記」のリストには、荷風の『あめりか物語』とともに本書『荷風のあめりか』をも、是非加えたいということに尽きる。これからアメリカへ留学するにせよ遊学するにせよ、あるいはたんに旅行で滞在するにせよ、日本語を操る者であれば、とくに若い心の持ち主であれば、いちどは読み通しておきたい青春の体験記、それが本書である。

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ところで、2004年 9月には、本書原型連載時から 10年の時を経て、末延氏のほうもわたしの著作を参考にしてくださっていること、共通の友人がいたりすることなどが判明し、平凡社編集部のご厚意により、とうとう初対面を遂げた。この前年 2003年に末延氏は同社の新しい文化批評シリーズ<セリ・オーブ>よりジョージ・ガーシュイン論『ラプソディ・イン・ブルー』を刊行していたせいか、永井荷風とモダニズム音楽を連動させようとする意志はますます強まるばかりのようにお見受けした。

その強靱な意志が、圧倒的な実行力を伴うのを思い知ったのは、2004年暮れに舞い込んだ一通の招待状である。末延氏は同年 12月 20日の晩、六本木の外れ、乃木坂にあるシアター・アンド・バー「コレド」にて、日米をまたにかけて活躍するラグタイム・ピアニストの池宮正信氏をフィーチャーし、講演つきのクリスマス・コンサート「荷風が聴いたアメリカの音楽−−ラグタイムからドビュッシーまで」を開催したのだ。そこでは、スコット・ジョプリンからワグナー、ドビュッシーまで、20世紀初頭のニューヨークに構築されていた音楽空間がみごとに再現されるばかりか、イラク戦争を承けて「非戦」の先覚者としての荷風までが強調され、アメリカ文学を専攻する者として、こんなにスリリングなひとときはなかった。荷風自身は 1879年生まれだから、モダニズムの親分格であったガートルード・スタインやシャーウッド・アンダソンとほとんど変わらないが、にもかかわらず末延氏の手にかかると、この明治作家ほどに時間と空間を超えて遍在する文学者はいなかったように感じられるのだから、不思議なものだ。

現在の末延氏は、かつて永井荷風自身も教鞭を執った慶應義塾大学三田キャンパスにて、2005年度上半期の久保田万太郎記念講座特別招聘講師をつとめ、その授業に感動した学生たちは、同年 12月に自主的に荷風初の戯曲「異郷の恋」を上演する。荷風の全貌を浮上させるのは、21世紀の仕事かもしれない。

10/21/2005



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HAPP企画「異郷の恋」パンフレット
巽孝之

 
永井荷風が在米日本人の青春模様を生き生きと綴った戯曲「異郷の恋」が、森田ふえこ君の演出・脚色・脚本により本塾にて本邦初演されると聞いたのは、去る 2005年7月。春学期に三田キャンパスにて久保田万太郎記念講座「詩学」の特別招聘講師を務め、最終講義を終えられた文芸評論家の末延芳晴氏が、メールで知らせてくれたのである。過去 5年間ほど久保田講座の運営委員を務めてきた「裏方」のひとりとしては、心からうれしく思ったものだ。

若いみなさんは、久保田万太郎といってもピンとこないかもしれない。しかし、1910年 5月、慶應義塾の反自然主義的伝統を象徴する文芸雑誌『三田文学』がほかならぬ永井荷風によって創刊されると、その翌年、荷風教授が「何か出来たら、もって来てみせて下さい」と語ったのを承けて、小説「朝顔」と戯曲「遊戯」を持ち込んだ学生が万太郎であった。ふたりは師弟関係と言ってよい。双方ともに江戸情緒に満ち、わたしの大好きな九鬼周造の『「いき」の構造』を体現するような文学者である。荷風の遺産は『三田文学』だが、万太郎の遺産はその印税収入を基盤にした特別記念講座として残り、これは名塾長の名を冠した小泉信三記念講座と双璧を成す三田の文化なのである。

したがって、新世紀に入ったばかりのころ、久保田講座の運営委員を任されたときより、招聘講師の有力候補として名著『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)の著者・末延芳晴氏の名前が念頭に浮かんだのは、いうまでもない。同書刊行の年、わたしは読売新聞の読書委員だったから、一も二もなくそれを書評に取り上げた。在米経験 25年という末延氏にはおよびもつかないが、わたし自身も 1980年代半ばにはニューヨーク州イサカにあるアイヴィーリーグ校コーネル大学に留学し、20代の末より 3年間を過ごしたため、以来、永井荷風の『あめりか物語』は先人の手になる優れた留学体験記として、それ以上に一種の青春ドラマとして、もともと啓発されるところが多かったし、それを主たるテキストにして絵葉書もふんだんに盛り込んだ末延氏の書物は、アメリカ文学史の視点からも得るところが少なくなかった。

そして昨年 2004年の 9月。平凡社の編集部長を介し、文京区白山の小料理屋で初対面を遂げ、その帰り道に、久保田講座のご依頼をしたのである。著者と編集者の関係にはいろんなかたちがあるが、このときほど、長年の「同志的交友」が有効に機能したのを実感したことはない。詳細は、末延氏の前掲書の平凡社ライブラリー版『荷風のあめりか』解説に記したので、参照されたい。

森田君自身と会ったのは、ちょうどその 1年後にあたる 2005年 10月。これまでのわたしは基本的に永井荷風の典型的読者像を「中年以上の世代が昔を懐かしみつつ、ありえたであろうもうひとつの青春を夢見ようと耽読する人々」と考えていたから、20歳やそこらの年齢で、しかもくたびれるどころか元気溌剌とした女子大生しか見えない森田君が荷風にハマっている、とさも楽しそうに語るのを聞いたときには、正直、一種のカルチャーショックさえ受けた。末延さんの講義に接した彼女は、そこに旧来の世代とはまったく異なる荷風のテクストを「視」てしまったのだろう。ここからまったく新しい荷風が生まれてくるのにちがいない、とわたしは確信したものである。新世紀の師弟関係、新たなる「同志的交流」のうちで新旧荷風像が衝突し、まったく新しい荷風が創造されるのに立ち会うことができるのを、わたしは誇りに思う。

洩れ聞くところによれば、「異郷の恋」の本邦初演は、なかなかに多難だったらしい。だが、若いエネルギーは、多くの障害を乗り越えてとうとう実現にまでこぎつけた。「異郷の恋」を上演するという試み自体がもうひとつの青春ドラマになってしまったことの不思議。これをきっかけに、ますます独創性あふれる企画が続出し、新たな文学が、そして新たな文化が出現することを、わたしは切に願ってやまない。

11/30/2005



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慶應義塾大学藝文學會


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【関連書籍】
『メトロポリタン歌劇場』(音楽之友社、1993年)


『回想のジョン・ケージ——同時代を生きた8人へのインタヴュー』(音楽之友社、1996年)


『永井荷風の見たあめりか』(中央公論社、1997年)


『荷風のあめりか』(平凡社、2005年)


『荷風とニューヨーク』(青土社、2002年)


『ラプソディ・イン・ブルー——ガーシュインとジャズ精神の行方』(平凡社、2003年)


『夏目金之助 ロンドンに狂せり』(青土社、2004年)


『森鷗外と日清・日露戦争』(平凡社、2008年)


『寺田寅彦 バイオリンを弾く物理学者』(高知県出版学術賞受賞;平凡社、2009年)


『正岡子規、従軍す』(第 24回和辻哲郎文化賞受賞;平凡社、2011年)


『原節子、号泣す』(集英社、2014年)