#7 Mark Seltzer


Panic Literati 第 7回は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のマーク・セルツァー先生を取り上げます。さる 2014年 9月 17日に、慶應義塾大学三田キャンパスにて開催された先生のご講演 “The Suspended World” は、新著 The Official World の刊行を控えた先生の最新の内容で非常に啓発的でした。今回は本講演会を院生のレポートとともに振り返ります!なお、序文は巽先生に書いていただきました。コーネル大学留学時代でのセルツァー先生との出会いから、先生のご著書 Full Metal Apache を契機の一つに重ねられてきた交流が明かされます。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
CONTENTS
Photos: Lecture by Mark Seltzer "The Suspended World"

Introduction
巽孝之

1. Self-reporting する現代社会
濟藤葵

2. 超報告
内田大貴

3. 二日間の覚え書き
細野香里

4. 倫理なき反復——「生の技法」としての Self-Reporting
冨塚亮平

5. 恋人の自己報告/フラニーの卒倒
小泉由美子

6. めくるめく読解―映画と小説とポイント・カード
宇野藤子

7. 「現代」の像、「現代」の動き
池邉遥香

関連書籍
関連リンク

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
Photos: Lecture by Mark Seltzer "The Suspended World"
2014年 9月 17日(水)16:30-18:00
@慶應義塾大学 三田キャンパス 南校舎4階 442番教室
巽先生司会





■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
Introduction
巽孝之

時は 1984年秋。わたしがフルブライト奨学金を初めて受けて、本務校からは塾派遣留学生というステイタスでコーネル大学大学院で学び始めたころにさかのぼる。指導教授はジョナサン・カラーであったが、彼の勧めにより受講する授業を決めるさい、アメリカ文学ならばということで巨匠マイケル・コラカチオとともに若手マーク・セルツァーの名前が挙がった。まったく未知の名前であり、本人もカリフォルニア大学バークレー校で新歴史主義批評の精鋭ウォルター・ベン・マイケルズのもとで学び、ヘンリー・ジェイムズが主題の論文で文学博士号( Ph.D.)を取得したばかりの新進気鋭という。 1951年生まれ、当時 33歳の "assistant professor"(当時の日本ならば「助手」とか「講師」だが、 21世紀においては「助教」に相当する)は、先端的批評誌『ダイアクリティクス』にもミシェル・フーコー論を発表して理論家としても注目を浴びており第一著書『ヘンリー・ジェイムズと権力の芸術』Henry James and the Art of Power(コーネル大学出版局、 1984年)も出版したばかり。ジェイムズはそれまで長く美学的な作家と思われていたもののその内部では美学と政治学が解きほぐしがたく絡み合っていることを、主としてフーコーやド・マン、ジェイムソンの方法論に準拠しつつ解き明かした同書は学界でも高い評価を得ていた。

そして、じっさい蓋を開けてみると、彼がこの時、授業のテーマに選んだのは19世紀アメリカのリアリズム文学だった。リーディング・リストは、もちろんジェイムズを筆頭にしたものだったが、それまで日本で教育を受けてきたわたしが基本的にアメリカン・ルネッサンス作家と信じ込んでいたナサニエル・ホーソーンの『七破風の屋敷』も含むもので、これは文学史的常識を覆す野心的な授業ではないかと思ったものである。のちに彼の師匠マイケルズの名著『金本位制と自然主義の論理』 The Gold Standard and the Logic of Naturalism ( 1988年)の冒頭にも『七破風の屋敷』における土地問題、権利問題を自然主義文学に先駆けたモチーフとして読むという姿勢を発見したから、こうしたラディカルなまでの転倒的発想は案外、彼らの理想的な師弟関係からもたらされたものかもしれない。ちなみに、この時わたしが提出した二つのタームペーパーは、ひとつがマーク・トウェインの『まぬけのウィルソン』を記号論的に、もうひとつがスティーヴン・クレインの『赤い武勲章』を物語学的に扱ったもの。いずれも、そのうちしっかりと手を入れてかっちりした学術論文に仕上げようと思いつつ 30年も放置してしまった。しかしこれら二つの名作を熟読する機会を得たのはまことに有益であり、セルツァー教授にはいまも感謝している。
 
さて、わたしは1987年にコーネル大学大学院を卒業して帰国した。以後は 1993年に日本文学専攻のブレット・ドゥバリー教授に招聘されて再訪した時を除いて、母校にも指導教授たちにもしばらくご無沙汰していたのだが、再会のチャンスがひょんなところから降って来たのだ。

あれは拙著 Full Metal Apache がデューク大学出版局から刊行された時だから、 2006年のこと。同書をたまたま入手して読んだセルツァー教授から、長いお褒めのメールを賜ったのである。当時の彼は、コーネル大学からカリフォルニア大学ロサンジェルス校に移籍して数年を経ていたが「いずれ UCLAにも講演に来るように」という依頼も添えられていた。まことに意外というほかない。拙著はリアリズム文学研究でないばかりか正統的なアメリカ文学研究ですらなく、サイバーパンクやアヴァン・ポップなど現代文化を背景にした日米比較文学論の色彩が強かったのだから。

しかし、ふりかえってみれば、彼自身もジェイムズ研究以降の仕事は文学研究をダナ・ハラウェイのサイボーグ理論と接続する『身体と機械』 Bodies and Machines( 1992年)やトラウマ理論やスペクタクル理論にもとづく文化研究『連続殺人鬼』 Serial Killers( 1998年)、『犯罪』True Crime( 2007年)の方向へ傾斜していたので、いずれは道が交わる運命だったのかもしれない。

さらに、彼ともうひとりのコーネル大学教授シャーリー・サミュエルズとのあいだの愛息ジョンが現代日本の漫画やアニメなどの大ファンという事情も手伝い、 2007年ごろから、毎年暮れも差し迫るとお忍びで来日するセルツァー教授と会食するのが習慣となった。 2013年にわたしがカリフォルニア出張したさいには、長年の約束だった UCLA講演も果たした。その過程で、現在大学院でジェイムズ研究で博士号請求論文を仕上げようとしている逸材がいるからいずれは副査を務めてはいただけまいか、とお願いしたのが、今回 2014年 9月の再来日となり、日本での初講演につながった次第である。果たして、博士号請求論文の口頭試問のみならず、よりポップカルチャー研究の性格を強め現代世界全体のメタフィクション的自己言及構造を喝破する近刊『オフィシャル・ワールド』 The Official World からの抜粋を含む公開講演を設定出来たことを、心からうれしく思っている。

2010年:左から巽先生、セルツァー先生、小谷先生。右から、ピーター・フィッティング先生(トロント大学)、セルツァー先生ご子息 @六本木 福鮨
2013年:UCLA 講演(セルツァー先生司会、巽先生講師)打ち上げ

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
Self-reportingする現代社会
濟藤葵

去る9月17日(水)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のマーク・セルツァー先生の講演 "The Suspended World" を拝聴した。

講演の中で、セルツァー先生は、自身が the official world と呼ぶ現代社会のあり方について説明した。先生の定義によれば、現代社会は、self-conditioning し self-reporting するもの、つまり、現代社会は自らの状況を見せること(stage)によって自己形成している。いわば、現代社会は、絶えず自身を監視、かつ自動更新しながら、自己を描写しているのである。この概念は、来年デューク大学出版局より刊行されるセルツァー先生の最新著作 The Official World でも、詳しく論じられる予定という。

そして、セルツァー先生は、アメリカでベストセラーとなり、2013年にはブラッド・ピット主演で映画化もされたマックス・ブルックスの小説 World War Z (2006) を例に挙げた。先生は、貧しい農民をも見捨てずに助けたり、住民たちによって作られた新ダーチャンという村で珍しい病気を発見したりする中国人医師、クワン・ジンシユーが登場する冒頭場面を引用し、現代社会における self-description のあり方について看破した。私にとって、一貫して先生の講義の中心となっていた the official world(self-reporting する現代社会)という概念は、大変新鮮な切り口であった。

講演後の懇親会では、限られた時間ではあったが、セルツァー先生と直接お話することができ、とても貴重な機会であった。私がヴェトナム・ヴェテラン作家として著名なティム・オブライエンの研究をしていることを話すと、先生は「なぜオブライエンを選んだのか?」と尋ねた。私は、最初はオブライエンという作家のことは知らなかったが、村上春樹の作品が好きで、Things They Carried をはじめとする村上によるオブライエンの邦訳を通して、オブライエンの存在を知った経緯を明かした。セルツァー先生も村上の小説を何冊か読んだことがあるそうで、そういった面からも、先生の日本文化への傾倒を垣間見ることができた。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
超報告
内田大貴

僕は今から、僕がマーク・セルツァー教授の講演会で見聞きしたことについて書き始めようとしているところだ。しかしながら実際にはもう書き始めてしまっているわけで、つまり僕は今僕自身の報告について報告しており、それが恐らくはウェブ上で公開されて不特定多数の目に触れることになるのだから、それなりに面白い文章を仕上げなければと自分を励ましながら(クラーク・ケントさながらの目にも留まらぬタイピングで、とはいかないながらも)、書いている次第だ。

このような書き出しは古典的な例だが、これからセルツァー教授の講演会レポートを書こうとしているところである、と僕は報告する僕自身をさらに報告しよう、という一見すると悪ふざけみたいことを行なっているわけだが、これがセルツァー教授のいう「自己報告」("self-reporting") の一つの形だと思われる。しかも、それが多少なりとも他人の目に触れることになるのだからと「自己激励」("self-inciting/stimulating") をし、この文章を少なくとも見るに耐えられるものにしなければという「自己条件」("self-conditioning") をほとんど無意識的に課してもいる。僕がここまで書いたことは、一言でまとめると、報告することについて報告しているメタ報告ということになる。セルツァー教授はこのような構図を、スーパーマンを例に出して解説する。クリプトン星から地球にやってきた宇宙人である彼は、普段はクラーク・ケントを名乗る『デイリー・プラネット』誌の記者 ("reporter") であるが、結局のところ、この世界にとって彼はアウトサイダーであり、僕たちの暮らすデイリー・プラネットについての報告者 ("reporter") でもあるのだ。

セルツァー教授はこのような「自己報告」的世界が、現在の「公式世界」("the official world") を形作っていると語る。「公式世界」は、「私は私である」と「自己報告」をすることでそれ自体たりうる。このようなトートロジー的性質は、裏を返せば「公式世界」と現実の現実 ("real reality") との間にずれを生み出すことになる。すなわち、報告されないものは、たとえ実際に存在していたとしても、「公式世界」的には存在しないことにもなりかねない。

教授の話を聞きながらふと思ったことがある。クラーク・ケントことスーパーマンは夜になるとたいてい街の上空を飛び回ってパトロールをするのだが、彼の驚くべき聴覚は遥か上空からでも、地上の警報やサイレンの音を聞きつけ、直ちに現場に駆けつけることができる。このような場面で僕がいつも考えてしまうことは、彼が耳にしていても無視しているかもしれない音や彼だけでは救いきれないであろう人々の存在だ(ちなみに彼は最高時速800万キロで飛行できるらしいが、それでも地球を一周するのに約18秒かかる)。デイリー・プラネットの報告者 ("reporter") である彼に報告されない事柄は、そこから取りこぼされた存在として「公式世界」的には存在しないことになってしまうのだろうか。

そういえば、スーパーマンの例に関して、セルツァー教授は、個人の些細な行動が世界の縮図でもあるのだという主旨のことを語っていたと記憶している。こうして報告する僕自身のことについて報告している僕は、もしかすると世界の縮図なのかもしれない。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
二日間の覚え書き
細野香里

去る9月16・17日、私は幸運にもマーク・セルツァー教授のお話を間近で伺う機会に恵まれた。16日は、セルツァー先生が副査を務められた、ヘンリー・ジェイムズを専門とする先輩の博論口頭試問を見学させていただいた。時折のジョークを挟みつつも、終始心地よい緊張感が漂い、議論が白熱した際にはその場にお集まりになった先生方が放つ知的エネルギーがひしひしと感じられた。印象的だったのは、セルツァー先生が、書き手ジェイムズと登場人物との力関係について議論されていたことだ。登場人物間の力関係を考察する議論には馴染みがあるが、先生のメタ的な着目点は新鮮に映った。

17日は、"The Suspended World" と題されたご講義を拝聴した。内容は、スーパーマンことクラーク・ケントが、日常生活では新聞社に勤め、『デイリー・プラネット』紙上でスーパーマンの活躍を報じているという自己言及的な世界観を足がかりに、"Auto-tropic" "Auto-genetic" といったキーワードや Human-pyramid のモチーフを用いて社会構造を読み解くという独創的なものだった。普段自分が作品を読み解く際とは全く異なるアプローチであり、大変刺激を受けた。19世紀アメリカ文学をご専門とされている先生が、同時にヴァイオレンス・ノベルやシステム論を扱っておられることを不思議に思っていたのだが、前日の口頭試問で拝聴したジェームズ作品に対する俯瞰的視点を思い合せると、セルツァー先生の思考の一端が垣間見えたような気がした。

ご講義後に設けられた懇親会の席では、入れ替わり立ち代わり席を移動してやってくる院生一人ひとりの話に丁寧に耳を傾けてくださった。その様はまるで指導教員の個人面談のようだった。私は、修士論文執筆の際に最も参照した研究者と、セルツァー先生が知己の間柄であることに改めて感動を覚えた。同じカリフォルニア大学系列に所属されているのだから当たり前の話ではある。しかし、書面上で目にしたことしかなかった錚々たる研究者の名が次々と先生の口から飛び出すのを伺うにつけ、いつか自分も彼の地にという思いが強まるのであった。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
冨塚亮平
人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。(フーコー『言葉と物』)
本講演においてマーク・セルツァー氏は、パトリシア・ハイスミスの作品群に加えて2000年代以降の比較的新しい作品群(トム・マッカーシーの小説、マックス・ブルックス『ワールド・ウォー・Z』とその映画版、ロバート・ラドラム『暗殺者』のリメイクである映画版『ボーン』シリーズなど)を数多く扱いながら、21世紀アメリカにおける新たな「生の技法」を self-reporting, self-monitoring といった用語に象徴されるものとして描き出した。

継続的に自己の置かれた状況、自らの状態をモニタリングし報告し続けること。そのような絶えざる mindless な反復の中でのみ、かろうじて自己ははっきりした輪郭を保ち続けることができる。氏の分析によれば、上記の作品群に現れる登場人物たちは、いずれもこの現代的な「生の技法」に関する認識を共有しているとされる。

かつてミシェル・フーコーが『性の歴史』三部作で分析した古代ギリシャ・ローマにおける「生の技法」は、あくまでも他者との関係性の只中にあって自己について思索する中で形成されたものであり、倫理やセクシュアリティの問題と密接に関わる、ある種の美学の側面を併せ持っていた。一方で氏が述べる現代の「生の技法」は、もはや倫理やセクシュアリティの問題系と切り離されてしまっているように思われる。現代的なモニタリングやレポートの宛先に身近な他者を想定することは明らかに不適当であろう。『言葉と物』の末尾でフーコーが予言した「人間の終焉」の風景は、波にさらわれて表情をなくした砂(=人間)の上で不気味に自閉的に蠢くゾンビやロボットたちによって引き継がれるのかもしれない。

ソーシャル化や SNS の爆発的流行を経た今、2010年代において self-reporting を巡る問題がさらにその重要性を増していることには疑いの余地がない。そこで、本講演では言及されなかったものの、こうしたポストヒューマン的な問題を現代アメリカで最も切実に引き受けようとしているように思われる、二人の人物が関わったある映像作品を最後に一例として取り上げてみたい。

昨年6月、発売を直前に控えたニューアルバム Yeezus のプロモーション動画として、カニエ・ウエストが公開した短編作品(http://www.youtube.com/watch?v=5b3_QoZzIwI)が大きな話題を呼んだ。1991年に執筆され、2000年に映画化されたブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』における有名な殺害シーンを引用・改変した、エリス自身の脚本を元に撮影されたこの作品は、self-reporting の問題系と共振する部分をあまりにも多く含んでいる。

まず、『アメリカン・サイコ』の主人公であるパトリック・ベイトマンは周知のように自らの服装からレストランや音楽の趣味に至るまで、あらゆるジャンルにおける自らの選択を常にとりつかれたようにモニターし、レポートし続ける存在である。また、このベイトマンの人物造形並びに彼が所属するコミュニティの描写は、処女作『レス・ザン・ゼロ』『ルールズ・オブ・アトラクション 』のケースと同様、明らかにエリスの鏡像としての側面を持つ。さらに、エリス自身の反復的 self-reporting への関心も注目に値する。現時点での最新作である『帝国のベッドルーム』『レス・ザン・ゼロ』の登場人物たちのその後を描いた続編であるし、この動画が発表される前後には、エリスは映画版『アメリカン・サイコ』(2000年の映画版にはエリス自身は関与していない)のセルフリメイクを企画していると自身の twitter 上で複数回発言している。作中のガジェットとしてのみならず、自身も twitter などのソーシャルメディアを活用して積極的に self-reporting を行う点も含めて、彼はまさに本講演の焦点である現代的な「生の技法」を体現する人物の一人であろう。

次に、カニエ作品について具体的に見ていこう。まず重要なのはキャスティングである。ベイトマン役を演じた Scott Disick は、カニエの妻であり self-reporting 文化の権化ともいえるリアリティTVシリーズへの継続的出演で名をあげたキム・カーダシアンの姉、コートニー・カーダシアンの夫であり、彼自身もカーダシアン家を追ったシリーズ Keeping Up with the Kardashians (2007-) に出演している。また、原作でのポール・アレン役を演じた Jonathan Cheban も同様に、同シリーズに出演したカーダシアン姉妹の友人である。つまりこの作品は、プロの俳優ではなくカニエ自身が現在属するコミュニティ内部の人物をあえて起用している点において彼にとって非常に self-reporting 的な色彩が濃いものとなっている。さらに言えば、共に会社重役とTVパーソナリティーを兼任するこの二人の出演者の現実における職業と生活は、まさにエリスが繰り返し描いてきたセレブレティのそれであり、その意味でも非常に興味深いキャスティングであるといえよう。 

そのある種カニエの身内ともいえるキャストにまずエリスが語らせているのが、カニエ自身のディスコグラフィーに対する、あからさまに紋切型の評価である。これは原作における、いかにも音楽雑誌の粗悪なレビューをそのまま引用したようなホイットニー・ヒューストンへの言及をパロディ化したものであろう。そこにカニエ自身がインタビューで語った自らとスティーブ・ジョブスとの比較を取り入れた発言が続いた後で、最後に原作の殺害シーンが再現されることとなる。

その殺害シーンにあわせて流されるカニエの新曲 "New Slaves" はまずその過剰なまでに単調なトラックの、本講演のテーマとも通じる機械的な反復が印象的な楽曲であるが、それ以上にそのリリックは、まさに彼自身の消費社会との複雑な関係を反映したきわめて self-reporting 的なものであり、エリスの諸作品とも多くの面で共振する側面を持っていると言える。紙幅の都合上リリックの詳細な検討は避けるが、たとえば第一ヴァースの後半部は本稿の関心から見て特に興味深い。
You see it's broke nigga racism
That's that "Don't touch anything in the store"
And there's rich nigga racism
That's that "Come here, please buy more"
What you want a Bentley, fur coat and diamond chain?
All you blacks want all the same things
Used to only be niggas now everybody play me
Spending everything on Alexander Wang
New Slaves
商品を巡る黒人差別が「店の品物に触れるな」から「黒人は皆同じものを欲しがる」へと変質しつつ保存されていることに言及しつつ彼は、その「同じもの」が指している対象が今また変化していると語る。かつてはベントレー、毛皮のコート、ダイヤのチェーンなどに代表された黒人が欲しがる商品の紋切型は、現在では Alexander Wang の商品になっている、と。実際にカニエは自身交流のあるデザイナーである Alexander Wang の商品を身に着けた場面をたびたびパパラッチされていることで知られており、現在黒人の若者の間でハイブランドである Wang の洋服が流行している背景には明らかにカニエによるプッシュが大きく影響している。黒人差別の歴史とリアリティTV的な自分語りを数多くの紋切型の表現を用いて絶妙にリンクさせつつ、自らもその渦中にどっぷりとはまり込んでいる消費主義、拝金主義に囚われた現代の黒人たちを New Slave と名指すカニエの身振りには、倫理なき反復としての self-reporting を自らの「生の技法」として正面から引き受けようとする、エリスにも通じるある種の切実さが見て取れるのではないだろうか。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
小泉由美子


シックなレストランで恋人がチキンとカエルを貪り食う。フラニーは額に汗をかき顔は真っ青、短篇終盤、はたして卒倒してしまう。ツボにはまったレストランでツボにはまったかわいい恋人とツボにはまった週末を過ごすツボにはまった「自分」にはまっているレーンに、なぜフラニーがはまってしまったのかが謎の一つではあるのだけれど、フラニー卒倒の一因が短篇冒頭の彼女の無理な決心にあるのは明らかだ。
これからはレーンの話に身を入れて聞き入っている態度を示さなければならぬと、われとわが身に宣告を下した。(サリンジャー、「フラニー」野崎孝訳 17頁)
先日行われたマーク・セルツァー先生のご講演 "The Suspended World" は、現代社会を、自己報告/自己言及的な(self-reporting/self-referential)個人によって劇化された(staged)、浮遊する世界(suspended world)として描き出した。質疑応答において、同種の記号論的危機感は、現代に限らないことを確認した上で、しかし、程度において、現代ほどネットを媒介としてあらゆる情報が過剰に交錯し、個人が気楽に自動的に自己報告/自己言及する時代はなかったと指摘する(Twitterなど)。そこでは語ることが目的ではなく(内容が大事なのではなく)、語ることもまた一つのポーズとなる。こうしたポーズの連なりによって織り成される世界は、ゲームであり閉鎖回路であり「公式世界」として現出する(先生の近日刊行新著 The Official World)。そうした社会の一側面を、先生が考察されているように、現代作家たちは戦略的に援用する一方、こうした混沌とした記号論的情報世界をサバイブするためには、ポーズによって織り成される浮遊 suspended の状態をどうにか少なからず引き受けることが必要とされるだろう。

この状態を引き受けられず破綻をきたしたのが、フラニーだ。ツボにはまったレストラン/ツボにはまったかわいい恋人/ツボにはまった週末/ツボにはまろうとするレーンのポーズにうまくはまれないフラニーは、はまることで相手を喜ばすことができることをわかりつつも、半ば強制的に自身をはまらせようと決心しつつも(「レーンの話に身を入れて聞き入っている態度を示さなければならぬ」)、だからこそ、行き場を失い現実から意識を失う。かつて夢中になった舞台女優の役割も(なんせフラニーは美しい)、それに伴う俳優たちのポーズに耐え切れず、その舞台からおり/おちてしまう。フラニーほど、自己報告/自己言及によって劇化される現実に吐き気をもよおす存在はなく、浮遊する世界の亀裂に落ち込む存在もない。スーパーマンが自己報告によって成立する浮遊世界の綺羅星である一方、フラニーはその裂け目に落ち込んだ犠牲者として卒倒する。

しかし、ポーズにはまっているのはレーンだけではない。言うまでもなく、フラニーが陥ったのは自己嫌悪だ。だからこそ、「太っちょおばさん」が彼女を救う。太っていて、血管が目立っていて、一日中ラジオ全開で、そしておそらく癌にかかっている「太っちょおばさん」は、フラニーが敬愛する兄シーモアが語ってくれた存在であり、それゆえ、フラニーはかつて「太っちょおばさん」の「存在」を心から信じ(ようとし)ていた。フラニーが、「太っちょおばさん」のエピソードのあとで、なぜぐっすり眠ることができたのかは、はっきりとは分からないのだけれど、たぶんおそらく、ただ単純に、誰かのために誰かが存在してほしいと思う気持ちを思い出せたからこそ、ぐっすり眠ることができたのではないだろうか?「太っちょおばさん」は物語である。しかし、物語を介して、フラニーは救われた。これが希望でなくてなんだろう?

***
卒業論文をサリンジャーで書いていたときには漠然としたものだったけれども、セルツァー先生に現代社会をめぐる批判的輪郭について鮮やかに講義していただき、サリンジャーという作家が、セルツァー先生が言うところの浮遊する現代社会について、その亀裂をいかに鮮やかに描き出し、いかに優しく救っていたかを実感し、改めて感激した次第です。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
宇野藤子

講演は三田キャンパスの南校舎のある教室で開催された。スライドに映像を写しつつ、淡々と進めていたマーク・セルツァー氏は「皆さん、僕の話についてきていますか」と時々こちらの反応を窺った。確かに、教室は終始静まり返っており、氏が不安になるのも当然だった。しかし、それは張りつめた緊張が醸し出す静けさだった。そのゆっくりとした語り口とは裏腹に、セルツァー氏は次から次へと話題を繰り出し、聴衆は(少なくとも私は)追いつくのに必死であったのだ。パトリシア・ハイスミスの小説 The Talented Mr Ripley (1955) に登場する人間ピラミッドから、映画『ワールド・ウォーZ』 (2013) の群がるゾンビへのイメジャリーの連鎖など、作品やジャンルを飛び越えた読解に驚くばかりだった。サスペンス物は、謎の解明に向けて前に進むのと同時に、謎に包まれていて宙に浮いているような状態、まさに "suspended" なのだという。その浮遊のイメージは映画『ゼロ・グラビティ』(2013) で宇宙空間を漂う主人公によって最も分かりやすく体現されている、とまたしてもハリウッド映画を引き合いに自身の仮説を補完した。最後にトム・マッカーシーの小説 Remainder (2007) に描かれたコーヒー店の "loyalty card" について、コーヒーを買うたびにポイントが貯まり、貯まったポイントを店に対する「忠誠心」と呼ぶ制度に注目していた。自身の行動を記録するうちに、その記録の集積にはまた別の意味が付与される。別の例として、鏡張りのジムで身体を鍛えて、鏡に映った、むきむきの身体を満足げに眺めるのも、身体に「記録」しているという点で同じであるとしていた。氏は専門とする作家ヘンリー・ジェイムズについても、社会、政治、経済などの外的な要因に着目した研究を行っている。そうした支配に対抗するものとしてジェイムズは "the art of power" を巧みに行使したと著作で述べ、作品と外界の相互作用を中心に考察している。テクストだけでなく、世界を覆い、動かしている「力」にも注目する姿勢が、書かれたテクストに限られない幅広い「読み」を可能にしているのだろう。本講演は、セルツァー氏の落ち着いた語りにゆったりとした時の流れを感じながら、目が回るようなめくるめく展開に圧倒されるという不思議な体験であった。



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「現代」の像、「現代」の動き
池邉遥香

私たちが生きる「今」を解き明かしたい。混沌としたこの時代の最先端を解剖したい。これは個々の時代を生きた哲学者、批評家、研究者の間で連綿と受け継がれてきた壮大な野望だろう。捉えどころのない今日の時代の一端をマーク・セルツァー氏はさらりと掴み、それを凝縮し、一本の映画にして私たちに観せて下さった――そんなご講演だったと思う。

論文というよりも、映画なのだ。「イメージと動き」を駆使し、感覚に直に訴えてくる。セルツァー氏の見る self-referential な現代とは、自ら勤める新聞社 "Daily Planet" の文字から成る環を持つ惑星に佇むスーパーマンの図であり、自己啓発セラピーにハマっているLAの人々であり、目の前でノートを取り、この発表自体を報告として残す私たち学生の姿だ。そして、例えば定年退職者を埋め合わせるように毎年自動的に入社してくる新卒社員、自らコーヒーを飲むことで疲労を自己回復するカフェイン過剰な日常に autogenic な今日を見いだす。記録に「落とし込んでいく」ことで存続し、自動的に「回り続ける」現代で、繰り返しの中、記録と実態が「乖離し」、意味を失った行為だけが「宙に浮いている(suspended)」感覚にまで議論は発展する。

次から次へと繋がるイメージ、それらに共通する「動き」。発表の冒頭で、先生は「発表の最後まで起きていられる人はいるだろうか」とジョークを飛ばしていたが、冗談ではない。うとうとするにはもったいなさすぎた。その場にいる全員が魅了された、観た後の感想を皆で何時間も話せそうな、想像が広がる最先端映画だったではないか。

現代を解明するのは果てしない作業に思える。しかし、セルツァー氏はその難しさや堅苦しさではなく、現代を語ることの圧倒的な自由さを鮮やかに示して下さった。この映画の続編が楽しみでしようがない。

P.S.
セルツァー氏が例として挙げていた映像のなかに、日本のテレビアニメが何気なく含まれていたことにアニメファンとしてとても感動した。また日本にいらした際は、アニメ好きだという先生の息子さんも交えて、是非アニメについて語らいたいものです。



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関連書籍
Mark Seltzer, Henry James and the Art of Power (Cornel UP, 1984)


---, Bodies and Machines (Routledge, 1992)

---, Serial Killers: Death and Life in America's Wound Culture (Routledge, 1998)


---, True Crime: Observations on Violence and Modernity (Routledge, 2007)


Takayuki Tatsumi, Full Metal Apache: Transactions Between Cyberpunk Japan and Avant-Pop America (Post-Contemporary Interventions) (Duke UP, 2006)



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
関連リンク