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CONTENTS
■写真
入子文子先生特別講演会「ホーソーン『緋文字』研究の新展開−−バーコヴィッチを超えて」
■序文
入子文子教授の新展開−−またはホーソーンとニューマンを合わせ読む面白さ
巽 孝之(慶應義塾大学文学部教授)
■講演へのレスポンス(学部生&院生)
□学部生(※若干加筆修正有)
常磐井あさひ (学部 3年)
足立英里華 (学部 3年)
曽谷紗妃 (学部 3年)
榎本悠希 (学部 4年)
中濵享子 (学部 3年)
尹あるむ (学部 3年)
井手雅 (学部 3年)
佐藤優果 (学部 3年)
内藤茜 (学部 3年)
湯田桂一朗 (学部 4年)
□院生
細部から深淵へ /田ノ口正悟(博士課程)
タペストリーを紡ぐ糸 /細野香里(博士課程)
『緋文字』と朗読文化 /冨塚亮平(博士課程)
よそものたちのひとときの連帯 /小泉由美子(博士課程)
19世紀ボストンの「声」事情 /小林万里子(修士課程)
■関連リンク
■関連書籍
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写真:入子文子先生特別講演会「ホーソーン『緋文字』研究の新展開−−バーコヴィッチを超えて」
日時:2017年 1月 17日(火)14:45-16:15
会場:慶應義塾大学三田キャンパス 西校舎 515教室
講師:入子文子(関西大学元教授)
司会:巽孝之(本塾文学部教授)
主催:文部科学省科学研究費助成事業基盤研究 (C) 15K02349「モダニズム文学形成期の慶應義塾の介在と役割」
共催:慶應義塾大学藝文學會、慶應義塾大学アメリカ研究プロジェクト
質疑応答にて |
懇親会二次会@しょこら 入子文子先生、巽孝之先生 |
常磐井あさひさん(学部 3年生)、入子先生 |
巽先生、内田裕さん(中央大学・院生) |
左から、常磐井さん、入子先生、巽先生、内田さん、 田ノ口正悟さん(院生)、小泉由美子さん(院生) |
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序文:入子文子教授の新展開−−またはホーソーンとニューマンを合わせ読む面白さ
巽 孝之(慶應義塾大学文学部教授)
2017年 1月 17日(火曜日)午後 2時半より関西大学元教授・入子文子先生を久々にお招きし講演会「ホーソーン『緋文字』研究の新展開−−バーコヴィッチを超えて」を催した。以前にお呼びしたのは 2005年 11月 15日(火曜日)のまったく同じアメリカン・ルネッサンス演習の時間帯、その時のタイトルは第一著書『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』(南雲堂、 2004年)のコンセプトそのものというべき「タペストリー仕立ての『緋文字』」。その内容の衝撃性はわたしの出版記念会祝辞を参照してほしいが、刺激的なご講演が終わったのちの学生たちとの懇親会では「だから研究は面白いのよ!」と強調しておられたのが、いまも耳の奥に残響している。
面白いのは、その時の主催はあくまで「慶應義塾大学文学部英米文学専攻」であったが、それから 12年の歳月ののちの講演会は、わたし個人のモダニズム研究を主とする科研費研究の主催、慶應義塾大学藝文学会および慶應義塾大学アメリカ研究プロジェクトの共催に変わったことだ。アメリカ文学演習そのものの方向性は変わらないが、わたし自身が近著『モダニズムの惑星』(岩波書店、 2013年)でも明らかにしたとおり、アメリカ 19世紀半ばのロマンティシズムの文学と世紀転換期のモダニズムの文学のあいだには相関関係が潜む。一昨年 2015年 6月に本塾三田キャンパスを会場として大成功に終わった国際ハーマン・メルヴィル会議は、黒船による日本開国と近代化とも無縁ではない『白鯨』( 1851)の文豪を徹底研究するものだったが、今回お招きする入子文子先生は、まさにそのメルヴィルの師匠であったロマンス作家ナサニエル・ホーソーンの本邦随一の権威である。ホーソーンがいなければ夏目漱石が甚大な影響を受けたリアリズム作家ヘンリー・ジェイムズも存在せず、さらにモダニズム詩人 T・ S・エリオットも存在しなかったという、 F・ O・マシーセンの喝破した文学史的系譜は疑うべくもない。とりわけ入子先生の博士号請求論文ともなった前掲書『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』は 1990年代に隆盛を遂げた新歴史主義批評、とりわけサクヴァン・バーコヴィッチのピューリタン予型論を経た文化研究的アプローチに即しつつも、 17世紀ピューリタン植民地時代に関しては独自の法制史的解釈を導入し、モダニズム研究の泰斗であった F・ O・マシーセンをも批判的に援用した真に独創的な発見に満ちている。わたし自身にしても、とりわけこの 12年間、入子文子先生がぞくぞくと企画された編著/共編著『視覚のアメリカン・ルネサンス』(世界思想社、 2006年)や『図像のちからと言葉のちから』(大阪大学出版会、 2007年)、『独立の時代−−アメリカ古典文学は語る』(世界思想社、 2009年)、そしてご関西大学退職記念出版ともなる『水と光−−アメリカの文学の原点を探る』(開文社出版、 2013年)に寄稿させていただき、それはアメリカ文学思想史をいっそう深く理解する助けとなった(『視覚のアメリカン・ルネサンス』については高山宏氏の書評集『見て読んで書いて、死ぬ』[青土社、 2016年 ]に詳細かつ啓発的な書評が収録されているので、ご参照のほどを [→詳細URL])。
だが今回、再び入子文子先生をお招きしようと決断した直接的な理由は、ひとつには 2016年度にたまたまホーソーンの『緋文字』のみを精読する演習を行なっていることがあるが、もうひとつにはここ数年、先生がヴィクトリア朝におけるオックスフォード運動の立役者ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿とナサニエル・ホーソーンの関わりについて、熱心に研究しておられることにある。英国国教会の支配する大英帝国においてカトリシズムとともに人文学全般の復興および再評価を促すに力のあったニューマンはほかならぬわたしの父・巽豊彦が生涯を賭けた研究対象であり、この人物とホーソーンがいったいどのように関わるのかを語った先行研究は皆無。ところが、圧倒的に独創的な発想に恵まれ緻密な分析技法を駆使する入子文子先生は、昨年 11月に亡父の遺著『人生の住処』(彩流社、 2016年)刊行を機に上智大学で行なわれた生誕百周年記念シンポジウムに出席され(→詳細URL)、ピーター・ミルワード名誉教授とも懇談されて、いっそうニューマン理解を深められていた(→詳細URL)。ロマンティシズム詩人サミュエル・テイラー・コールリッジから強い影響を受けたニューマンがのちにラファエロ前派の幻想文学者ウィリアム・モリスらをも触発していたという文学史的経緯はあるものの、いったいニューマン自身がいかに環大西洋的共振を起こしていたのかは、想像もつかない。
そこで、ぜひともこのアナロジーの奥義をおうかがいできれば、わたしのみならず、ニューマンには不案内なアメリカ文学専攻の学生諸君にも大いなる刺激になるだろうと考えた次第である。はたして講演では、これまで考えたこともなかった説教テクストの吟味によって、『緋文字』の奥底に巧妙に隠されていたとしかいいようのないオックスフォード運動の意義が浮かび上がり、参会者一同、まさに「研究の面白さ」を堪能した。
入子文子先生は今回のご講演をいずれ一冊の単著にまとめられると聞く、鶴首してお待ち申し上げる次第である。
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講演へのレスポンス
学部生 (※若干加筆修正有)
常磐井あさひ(学部 3年)
入子文子先生の論文「チリングワースのゆくえ」や『メランコリーの垂線』を読み非常に感銘を受けていたので、今回の講演会を拝聴できたのは感激であった。ディムズデイルが当時の天才の通例であるケンブリッジ卒ではなくオックスフォード卒であること、ニューマンのカトリックへの改宗が民衆に驚きを与えていたこと、ディムズデイルの最後の説教が、プロテスタントの一字一句を重んじる説教とは異なり、霊的なものを感じさせるカトリック的なものであったことから、ディムズデイルのモデルはニューマンであるという結論は精読から確かであり、腑に落ちた。また、興味深かったのは、パイプオルガンの読み解きである。パイプオルガンは神の息がパイプをのぼって出ていくものであり、先生のハンドアウト引用(10)にある “vocal organ” も、その人の中身が外に出ていくように描かれている点で、楽器と重なりダブルミーニングとなる。楽器的に “vocal” を捉えるところが、刺激的だった。
しかし、その説教は神の霊感が降りてきてなされたものであり、ディムズデイルの意志なく行われたと見ることによって、ディムズデイルの救いの神霊が担保される一方で、当人の自由意志による決定とそれによる “reconciliation” を重視していたホーソーンの見解と照らし合わせると矛盾が生じるのでは?とも感じた。また、チリングワースを悪霊とし払いのける姿をディムズデイルの臨終に見ているが、チリングワース善人説を説く先生としてOKなのかという点が気になった。メランコリーについてももっと知りたいと感じた。
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足立英里華(学部 3年)
巽先生の米文学演習で『緋文字』を 1年間かけて読みながらも、その背景を考える際にアメリカでの出来事を中心に考察してきたので、入子先生が同時代のイギリスにも目を向けていることに驚愕しました。ピューリタンたちの出身がケンブリッジであるのに対し、ディムズデイルがオックスフォード出身と語り手から設定されていることや、ジョン・ヘンリー・ニューマンという存在についても、今回の講演で初めて知りました。また、演習でテクストを読んでいた時には和訳と照らし合わせて一つ一つの語を確認することはなかったのですが、OEDできちんと調べると新たな発見につながることを知りました。人々に真理を伝えることがディムズデイルの使命であり、彼が上から霊感を与えられた神の道具として働いていることを考えれば、最終章において、“conscious that he was dying—conscious, also, that the reverence of the multitude placed him already among saints an angels . . . ” (163) となる点について、ディムズデイルの口を借りた神による使命が果たされ、その役目がもう必要無くなった為に、彼は死という結末を迎えたのかなと感じました。
カトリック、プロテスタント、国教会という宗教的な側面、バーコヴィッチの述べるようなヨーロッパの革命というホーソーン同時代の歴史背景、そして語り手の言及する1642年のクロムウェルの時代背景など、多面的な解釈を可能とする『緋文字』はとても奥が深く、今後も考察していきたいと思いました。
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曽谷紗妃(学部 3年)
イギリスの若き天才聖職者ジョン・ヘンリー・ニューマンとディムズデイルの関連性から、『緋文字』を読み解く視点に初めて触れ、視野を広げることができました。「神からさずけられたものは、自分の意志とは関係なく全身をゆだねた上で、声がパイプオルガンの役割を果たして伝えられる」という指摘とともに、ディムズデイルの説教の神秘性を奥深く知ることができました。また、『緋文字』におけるピューリタンとはかけ離れたカトリック的ヨーロッパ的性格に触れることができて、『緋文字』に対する理解がさらに深まったと思います。
20章は、私が発表で担当した箇所でしたが、入子先生の講演を聴いて、パイプオルガンという描写に対する自分の理解の浅さに気づかされました。神の意志を伝達するものとしてパイプオルガンの役割を理解すると、20章の “he drove his task onward with earnest haste and ecstasy” という表現が、「与えられるイマジネーションでどんどん仕事ができていく」と解釈できることにとても納得しました。また、入子先生が述べていた「食欲がでてきた=悪霊が出ていく」という見解の土台となるメランコリー理論にも興味を持ちました。全体を通して、ヨーロッパ、とりわけイギリスとの関連性の中で『緋文字』を考察する機会を持つことができて、とても貴重な経験になりました。
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榎本悠希(学部 4年)
今回の講演ではディムズデイルとニューマンの関連性が明確に述べられていて非常に面白かったです。特に、“organ pipe” と「空気」の関連性について、神との交信手段であるのと同時に、「出る空気」とは、出した人物の特質があらわれているという指摘が興味深かったです。神霊性を重視し、そうした状況下においては、人間の意志が介在し得ない、つまりすべての意志は神の内にあるという思考、これは同時代のラルフ・ウォルドー・エマソンなどが目指した近代的な自我像とは異なるのではないでしょうか。最後のディムズデイルの説教をそのように捉えると、非常に面白く感じました。今までは『緋文字』をロマン主義文学として考えていましたが、また異なった印象を抱くようになりました。
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中濵享子(学部 3年)
ディムズデイルをジョン・ヘンリー・ニューマンと比較しながら、ホーソーンはなぜディムズデイルをケンブリッジ大学ではなくオックスフォード大学出身にしたのかを、彼の説教における音や音楽に注目して読み進める視点はとても面白かったです。説教を読むとき普通は内容に着目しますが、入子先生は説教の仕方や声を中心に読解されたので、より深くディムズデイルの説教する姿を思い浮かべることができました。また、食欲が無かったディムズデイルに、「ターニングポイント」のあと突然食欲が出てきて、新しい説教を書き始める様子について、入子先生がメランコリー液から悪魔が出ていき、天才のメランコリーになったため食欲が出てきたのではないか、と読み解かれた点も大変刺激的でした。ディムズデイルとニューマンのもう一つの共通点として挙げられた、ヘブライ語聖書の使用について、これはピューリタンではなく、カトリック的であるという指摘がありました。ピューリタンが好まなかったパイプオルガンを連想させるなどして、ホーソーンがディムズデイルをピューリタンとは異なるものとして描きながらも、彼を悪い登場人物にはせず、最後まで正しく生きる人物にしたことが伝わってきました。
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尹あるむ(学部 3年)
今回の特別講演会を通じて、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』の新たな姿を見ることができました。私はこの一年間ホーソーンの『緋文字』を研究する中で、作品に登場する人物一人一人が皆非常に興味深い人物たちであると思っていました。その中でも特にディムズデイル牧師が最も印象深かったです。へスター・プリンは自分の姦淫という罪を表に出し周りに知らせ罰を受けます。しかし、へスターと一緒に姦淫を犯したディムズデイルは自分の罪を隠す一方、表や周りには正直で信頼されまた尊敬される自分を出します。そして、ディムズデイルは内面の自分と外に表れる自分の姿の間で苦しみます。今回の特別講演会では、このようなディムズデイルの人物造形に影響を与えたと先生が考えるニューマンという人物や、ディムズデイルの突然の変化に関してもより詳しく学ぶことができました。今日は本当にありがとうございました。
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井手雅(学部 3年)
はじめに、ディムズデイルのモデルにはっきりとした人物モデルがいないという点に衝撃を受けました。なぜなら、マイケル・コラカチオの論文でも私自身のレポートにおいても、ジョン・コットンとディムズデイルのアナロジーを前提にしていたからです。たしかに歴史倒錯、場面倒錯を巧妙に用いるのがホーソーンであることを考えれば、簡単にそのモデルを確定できないと再び考えさせられました。また、説教におけるディムズデイルとニューマンの類似性は大変説得力のあるもので、パイプオルガンへの言及は特に興味深かったです。ディムズデイルは、神が降りてくることで人々に説教をする神の道具になるのであり、そこに神の介入があるという指摘は大変おもしろかったです。選挙日説教と一言に言っても、その背景にある選民思想も加わり、意味に多重性が生まれるのでしょう。シンボルになるものを自分で恣意的に選択するのではなく、すみずみまで目をこらした上で、用いられている言葉に注意を向ける重要性の再確認となりました。そして今回のこの内容を理解にするにあたりニューマンについても触れることができ、その入り口に立つことができました。
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佐藤優果(学部 3年)
ヘンリー・ニューマンについてよく知らなかったので勉強になった。「教父哲学的な側面を勉強する→カトリックへの信念が強まる」という流れは、わたしが卒論で扱おうとしている作家に共通する部分があり、興味深かった。オルガンやオックスフォードなど、『緋文字』にはカトリックの要素がよく出てくるので、読むときにもう少し注意しなければと反省した。ディムズデイルが自分の罪を人々に告白しないことについて、社会性から逃れられない男性と考えがちだったので、神から与えられた使命として「真理を伝える媒介となる」という側面も加味して考えたいと思った。1642年以前の書簡について記すのは一種のアナクロニズムではないかと思った。全体を通して、カトリック−プロテスタント的な観点による読みが足りないことに気づかされ、勉強の必要性を感じた。
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内藤茜(学部 3年)
入子文子先生のお話は、ニューマンとディムズデイルの比較という一つの軸に沿いながらも、イギリスとアメリカの関係や、カトリックとプロテスタントの対立といった、世界へと扉が開かれるものであり、非常に聞き応えのある時間だった。視点の斬新さ、論の明解さ、歴史的根拠の精密さ、そしてテクストの読みの丁寧さとしなやかさ、という全ての要素の組み合わさり方に、なるほどニュー・ヒストリシズムを「超える」とはこういうことかと納得がいった。ディムズデイルの説教の描写から作品を切り取ると、一見捉われがちな物語の主軸とは別にこうも新しい景色が広がるのか、と聞き入ってしまった。特に興味深く感じたのは、ディムズデイルの悪霊の示唆の一つとして出てきたメランコリー論だ。16世紀の英文学を勉強している身として、Anatomy of Melancholy は知っていたが、それをディムズデイルの「パイプオルガン」のメタファーにまでつなげる考察は、私の思考の枠組をあまりに軽々と飛びこえてしまった。歴史小説あるいは過去に書かれた小説を研究する際には、現代の我々が安直に想像するように、「ディムズデイルには何か大きな心境の変化があった」というだけでなく、当時の人々はどう受け取ったのかを知るためにずっと多くの背景知識を必要とする。そんな初歩的で、だが見失いがちなことを改めて実感し、こんな卒論を書きたいと心から感じた。
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湯田桂一朗(学部 4年)
僕の知識や理解力不足が原因だとは思いますが、正直、堂々と「おもしろかったな」と言い切れるものではなかったです。そして、僕は『緋文字』をとても細かく読んでいるわけではないので、僕が本を読んだ印象に基づき、本講演会を通じて思ったことをつらつらと述べていくことにいたします。
・ディムズデイルとニューマンのつながりに関するホーソーンの直接的言及はあるのか?
・カトリックに改宗するということが、どれほどの重大さなのか?
・発表中に出てきた「天才、天才的」という言葉は何なのか?
・僕は「神」というのがきらいなので、説教者=神の使いみたいな考えのもと、それに感化される時代というのはすごいなと思った。
・声の音楽性。説教というのは一種の音楽のようなものであり、説教と声についての話のところで、ボブ・ディラン的なものを感じておもしろかった。
・内からでてくるものに任せる、自分の意志はなく神の道具と化す、みたいなところが、僕にとっては「ん?」となり、受け入れがたかった。
以上です。
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院生
細部から深淵へ
田ノ口正悟(博士課程)
入子文子先生のご発表を実際に聞かせていただいたのは、今回が初めてだった。わたしは、ハーマン・メルヴィルという 19世紀アメリカの作家を研究しているため、もちろん、メルヴィルの師であるナサニエル・ホーソーンの代表的研究者である入子先生のご著書は、機会あるごとに参照してきた。しかし、今回のご発表とその後の懇親会でのお話を通じて、先生の知識の深さのみならず、その旺盛な研究意欲から様々な刺激をいただけた。
今回のご発表は、ホーソーンの代表作『緋文字』(1850年)における主要登場人物アーサー・ディムズデイルのモデルを、英国国教会を代表する神学者でありながら後にカトリックに改宗することで世を騒がせたジョン・ヘンリー・ニューマンに求めつつ、作品自体を大胆に読み直すことに主眼が置かれていたように思われる。入子先生が、作中の細かな描写に対して抱いた疑問から研究を始めつつ、広範に渡る歴史的考証を交えながら独自の答えを作品に還元していく研究手法をとっていることに、わたしは感銘を受けた。
発表後の懇親会では、ついつい研究に「意味」や「将来性」を打算的に求めがちな若輩の自分にありがたい言葉をいただけた。すなわち、堅実に着実に調べ物をした先には必ず意義深い面白いものが見つかるから、それを信じて研究を進めていくように、と。研究というのは、疑問に対する答えを「仮説」という形で検証していく作業である。しかし、もしも言いたいことにとらわれすぎて仮説の検証と変更を怠れば、結果として自分の研究を小さくしてしまうことになる。ホーソーンの『緋文字』の細部から 19世紀英米の時代の深淵へと至ろうとする入子先生の研究者としての姿勢は、わたしのような研究者の卵に多くのことを示唆してくれた。
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タペストリーを紡ぐ糸
細野香里(博士課程)
連日の厳しい寒さも相まって新年の浮かれ気分もすっかり落ち着いた 1月 17日、関西大学元教授である入子文子先生のご講演「ホーソーン『緋文字』研究の新展開−−バーコヴィッチを超えて」を拝聴する機会に恵まれた。入子先生の『緋文字』論はすでに数多く世に出されてきているが、中でも 2015年 5月に行われた日本英文学会第 87回大会でのご発表「 Dimmesdale を読み直す――The Scarlet Letter 第 12章を中心に」が特別に印象に残っている。というのも、それが私にとって入子先生の口頭でのご発表を伺う初めての機会だったからだ。「 Dimmesdale を読み直す」では、『緋文字』第 12章に登場する様々な光、特にランタンの光について考察され、その過程でピューリタンの牧師ディムズデイルがなぜオックスフォード大学出身として描写されているのか、という謎が取り上げられた。当時、この先生がかねてから抱かれてきた、そして他の誰も踏み込んで指摘することのなかった疑問について真正面から向き合い、糸を手繰り寄せるように考察を進められてゆく研究姿勢に、大変感銘を受けたことを覚えている。今回のご講演では、その疑問についての考察がさらに進められ、以前のご発表でも触れられていたオックスフォード運動の担い手ジョン・ヘンリー・ニューマンとディムズデイルの関係性が指摘された。加えて、第 20章でのディムズデイルの突然の変化について、続く第 22章での選挙日説教の描写の分析と合わせて詳述されていた。特に印象深かったのは、入子先生のキリスト教美術やカトリックの典礼に関する深い造詣と、それに裏打ちされた『緋文字』読解である。まさに、新大陸と旧大陸を結ぶ糸を緻密に織り上げるかのようなご講義に、寒さも忘れさせられた一日であった。
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『緋文字』と朗読文化
冨塚亮平(博士課程)
入子文子先生によるご発表「ホーソーン『緋文字』研究の新展開—バーコヴィッチを超えて」において聴衆を最も驚かせたのは、おそらく牧師ディムズデイルの描写における “This vocal organ” という記述の読解であろう。入子氏は、ここで “vocal organ” を喉という器官に加えて、教会のパイプオルガンのイメージをも重ね合わせて読み解くことで、説教の神聖さを帯びた音楽性に注意を促した。そして、別の箇所では説教師の肺にもまた、オルガンとのアナロジーを読みこんだ。
この見事な読解を耳にした時にわたしがまず連想したのは、19世紀当時のアメリカにおける朗読文化のことであった。現在では、詩であればともかく、一般読者が日常的に小説を朗読する習慣はほぼ消滅してしまった。しかし、周知のように、ホーソーンが『緋文字』を執筆した 19世紀中葉の時点では、小説が朗読される機会は今よりも格段に多かったことが知られている。じっさい、ホーソーン自身、朗読についていくつかの記述を残している。
たとえばホーソーンは、すでに多くの論者が指摘しているように、『緋文字』の自身による朗読について言及している。『緋文字』脱稿直後に、最終場面を妻に読み上げようとした彼は、胸がふさがり、思わず声をつまらせてしまったのだという(The English Notebooks, New York, 1962, p. 225)。朗読とは、聞き手のみならず話し手の情動にも大きな影響をもたらし得る行為だったのである。こうした挿話を引きつつ辻前秀雄は、1969年の時点で早くも『緋文字』における語の選択が、意味内容のみならず朗読の可能性をも意識した、rhythm にも注目したものであったことを指摘している(「「緋文字」の RHYTHM 構成」)。
中でも、作中の設定としても朗読されることが前提となっていた、ディムズデイルの説教に関する記述は、特にそのrhythmの側面が重要な意義をはらむものであったといえよう。辻前は、“dreary and desert path” あるいは “stern and sad truth” といった頭韻の「かさね」や、随所に見られる形容詞の「かさね」に、「荘厳な楽章」に喩えられる「おもさ」を見出している。牧師の説教に用いられるテクストはここで、演奏家の演奏を待つ、固有の rhythm を備えた楽譜としても機能しているのだ。
さらに、『緋文字』の翌年、1851年に出版された『七破風の屋敷』では、クリフォードが二人の女性の朗読を聴く場面が、あからさまに対比されている。老いた醜い妹ヘプジバーの声は彼に響かないのに対して、従姉妹の少女フィービーが朗読中に笑うと、彼もまたそれに共鳴して笑ってしまう。ここには、朗読においてはテクストの内容のみならず、読み手がそこにどういった息吹を吹き込むことができるのか、つまりオルガンにたとえられる読み手の肺そして喉が、同じ曲をどんな音色で奏でることができるか、という問題もまた、大きな意味を持つことが示唆されている。
近年日本でも少しずつ顧客を増やしつつあるオーディオブックは、特に英語圏においては、ハリウッドスターなど多彩な朗読者を招聘し人気を博すようになっているという。お気に入りの声で『緋文字』を聴いていると、そこにこれまで聴きとる/読みとることの出来なかった、未知の “organ” の音色が不意に浮かび上がってくる。ご発表を聞きながら、そんな情景を想像した。
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よそものたちのひとときの連帯
小泉由美子(博士課程)
先日開催された入子文子先生による特別講演会は、牧師ディムズデイルに注目し、ピューリタン第一世代の多くがケンブリッジ出身であった一方、彼がオックスフォード出身である点を衝きながら、その人物モデルの一人をジョン・ヘンリー・ニューマンに求めるところから始まった。牧師の発声器官 (vocal organ) とパイプオルガンが絶妙に重なり合う描写の分析は、彼の説教の特徴を明らかにするとともに、ピューリタニズム一辺倒では理解しきれない『緋文字』世界の重層性を教えてくれた。
加えて、先生がかねてより主張してきたのは、「チリングワースのゆくえ」(『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』所収)と来し方であり、復讐に身を燃やすチリングワースを、ヘスターの墓場をめぐる作者の曖昧な記述および法制史を通じて再解釈されてきた。先生が提示されるディムズデイルのカトリック性やチリングワースの人間性、および後者が先住民に捕囚された経験をもつことを踏まえれば、両者ともに 17世紀ニューイングランド・ピューリタン社会におけるいわば「よそもの」であったことがより鮮明になる。すると、これまでわたしが個人的に不可解だった箇所がなんとなくぼんやりと輪郭を見せてきたのだった。
それは、10章の次の箇所である。「ところが牧師はだれも自分の友として信じなかったので、敵がほんとうに出現したときに、それを敵と認めることができなかったのである」。ここを読んでわたしは違和感を感じていた。なぜなら、「だれも信じていない」ことが、「敵を認めることができなくなる」理由となる理由が分からなかったからである。だれも友と信じなくとも敵を認めることはできるだろうし、むしろ不信が敵を生むのではないか、と素朴にわたしはおもったのだ。しかしながら肝要なのは、「不信が連帯を生む」可能性なのかもしれない。上記引用の直後、「そこで(therefore)彼はロジャー・チリングワースと親しくつきあい、毎日のように老医師を自分の書斎に招き入れ、また逆に実験室をおとずれ、気晴らしに、雑草が効能あらたかな薬になる過程を見学した」と記されるのだ(八木敏雄訳『緋文字』岩波書店、1992年)。
むろん、ディムズデイルが気づいていないだけで、上記「気晴らし」のときでさえ、チリングワースは心の内で復讐の炎を燃やしているかもしれない。その点において、ここでの「親しいつきあい “a familiar intercourse”」はみせかけにすぎず、顧みるに値しないかもしれない。しかし、罪にからめとられ、法や正義や道徳の外にいると自覚するディムズデイルが、信頼(trust)を喪失した状況においてこそ、他ならぬチリングワースと「気晴らし“recreation”」を得ることができたそのひとときを、わたしは肯定的にみたい。「不信のすすめ」では決してないけれども、よそものたちの世界において、友と敵の
ヨーロッパ精神史に通暁した上でなされる、壮大で緻密な入子先生の『緋文字』解釈を拝聴し、そんなひとときの可能性を夢想した一日でした。
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19世紀ボストンの「声」事情
小林万里子(修士課程)
入子先生の講演を拝聴していてまず思ったのは、ディムズレイルの「声」の描写に非常に見覚えがあるということだった。それは今取り組んでいるヘンリー・ジェイムズの『ボストンの人々』(1886)の中で、天才的な演説をする少女ヴェレーナの声の描写と酷似している。甘美で豊かな神がかった声によって聞き手に神秘的な経験をさせ、共感を促すディムズデイルの声の描写や、神の声の「媒体」となるその役割は、「巫女」として声に霊的な神聖さを漂わせながら、聞く人々を恍惚状態に至らしめ、婦人運動へと人々を団結させるヴェレーナのそれとほぼ重なるものだったのだ。そのため、この入子先生の「オルガン」的な、説教の音楽的特徴に「カトリック」的な要素を見る考察は、新たな見識を与えてくれるものだった。どちらも「ボストン」という伝統的なピューリタンの地を舞台にしながら、カトリック的なヒロイン/ヒーローを描いた点は非常に興味深い。ジェイムズはホーソーンを敬愛し、『ホーソーン伝』(1879)において『緋文字 』(1850)を絶賛しているため、『ボストンの人々』にもその影響がみられるのではないかと思う。この 19世紀ボストンの宗教事情や宗派によって異なる音楽観というテーマは、今後も個人的に掘り下げていきたい。
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関連リンク
■01/17:入子文子先生(関西大学元教授)特別講演会「ホーソーン『緋文字』研究の新展開−−バーコヴィッチを超えて」開催!(司会:巽先生)@三田キャンパス西校舎 515教室 14:45-16:15(CPA: 2016/12/31)
■入子文子先生監修による『水と光—アメリカの文学の原点を探る』が開文社より刊行され、巽先生と常山菜穂子先生が寄稿されています。(CPA: 2013/3/13)
■世界思想社より刊行された『独立の時代―アメリカ古典文学は語る』に、巽先生が「建国の父子たち―ワシントン、アダムズ、モンロー」論を寄稿!(CPA: 2009/6/4)
■武藤脩二・入子文子編著『視覚のアメリカン・ルネサンス』(世界思想社)巽先生がエミリー・ディキンスン論を、常山菜穂子・本塾法学部助教授がアメリカン・シェイクスピア論を寄稿しています。(CPA: 2006)
■本塾英米文学専攻主催・入子文子先生講演会「タペストリー仕立ての『緋文字』」(CPA: 2005)
■入子文子先生のご出版をお祝いする会:『ホーソーン・<緋文字>・タペストリー』(CPA: Miscellaneous Works:祝辞の達人)
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関連書籍
入子文子『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』(南雲堂、2004年)
入子文子『アメリカの理想都市』(関西大学出版部、2006年)
入子文子『メランコリーの垂線』(関西大学出版部、2012年)。
<監修>
『水と光−−アメリカの文学の原点を探る』(開文社出版、2013年)。
<編著>
『視覚のアメリカン・ルネサンス』(世界思想社、2006年)
『図像のちからと言葉のちから』(大阪大学出版会、2007年)
『独立の時代−−アメリカ古典文学は語る』(世界思想社、2009年)
『英米文学と戦争の断層』(関西大学出版部、2011年)。
<共著>
『アメリカ文学における夢と崩壊』(創元社、1987年)
『英語英米文学研究の新潮流』(金星堂、1992年)
『アメリカを読む』(大修館書店、1998年)
『女というイデオロギー』(南雲堂、1999年)
『緋文字の断層』(開文社、2001年)
『メディアと文学が表象するアメリカ』(英宝社、2009年)